ライドを終えたときに98.6km、あと1.4km走る?走らない?

ロードバイクおぢ

100kmライドを終えて自宅に到着。疲れた、風呂に入りたい、もう走りたくない。ところがサイコンを見ると「98.6km」。あと1.4kmです。ここで素直に帰宅できるのか、それとも意味もなく家の周りをもう一周するのか。一般人には理解されにくい、ローディーを悩ませる「キリのいい数字問題」を考えてみます。

玄関前でサイコンは98.6km

朝から走り続け、ようやく自宅へ戻ってきました。脚にはしっかり疲労が残り、ボトルの水もほとんど空っぽです。あとはロードバイクから降りて玄関を開けるだけ。そこで何気なくサイコンへ目を落とすと、表示されている走行距離は「98.6km」。この瞬間、さっきまで「早く帰りたい」と思っていたローディーの頭に、非常にどうでもいいはずなのに無視できない問題が発生します。100kmまで、あと1.4kmです。

98.6km走ったのですから、十分すぎるほどロングライドを楽しんでいます。身体にとって98.6kmと100kmに大きな違いがあるわけでもありません。それでも「今日は98.6km走った」と「今日は100km走った」では、なぜか妙に響きが違います。サイコンに3桁の数字を表示させて終わりたい気持ちが、じわじわと湧いてきます。

ここで玄関へ入ってしまえば楽です。シューズを脱いでシャワーを浴び、冷たい飲み物でも飲めば最高でしょう。しかしロードバイクにまたがったままの本人は、なかなか降りようとしません。「1.4kmくらいなら数分で終わるよな」と考え始めた時点で、ほぼ勝負は決まっています。自宅へ無事に戻ってきたにもかかわらず、今度は目的地すら存在しない1.4kmへ出発する準備を始めます。

家族から見れば完全に意味不明でしょう。帰ってきたと思った人間が、玄関前でサイコンを確認した直後、なぜか再び走り去っていくのですから。しかしローディーにとって、この1.4kmには残り距離以上の何かがあります。98.6という中途半端な数字を残したままライドを終了できるのか。それとも100.0kmを表示させて気持ちよく終えるのか。玄関まで数メートルの場所で、最後にして最大級にくだらない葛藤が始まります。

100kmまで残りはたった1.4km、されど1.4km

1.4kmと聞けば、ロードバイクではほとんど誤差のような距離です。元気な状態なら数分もあれば走れてしまいますし、普段のライドなら距離として意識することすらないでしょう。ところが98.6kmを走り終えたあとの1.4kmとなると、話は少し変わります。すでに気持ちは完全に終了モードです。脚を止め、家に着いた安心感を味わった直後に、もう一度ペダルを回し始めるのは意外と面倒です。

しかも、この1.4kmには目的がありません。絶景が待っているわけでも、おいしい補給食があるわけでも、仲間との待ち合わせがあるわけでもありません。ただ100.0kmという数字を見るためだけに走ります。冷静に考えれば、98.6kmでも今日走った内容は何ひとつ変わりません。獲得標高も思い出も疲労もそのままです。それでも100kmという大台が目前にぶら下がっていると、あと少しだけ足したくなります。

厄介なのは、1.4kmという距離が絶妙なことです。残り10kmなら「今日はもういい」と諦められるかもしれません。5kmでも疲れ切っていれば帰宅を選べます。しかし1.4kmでは、走らない理由を自分自身が認めてくれません。「ここまで98.6km走ったのに?」「あと数分なのに?」と、脳内のもう一人のローディーが猛烈に圧をかけてきます。

こうして疲れているはずの身体は再び走り始めます。近所を適当に一周するのか、いつもの道を少し先まで往復するのかは人それぞれですが、目的はただ一つです。そして表示が100.0kmを超えた瞬間、特別な記録でもないのに妙な達成感が生まれます。たった1.4km、されど1.4km。このわずかな距離を無視できなくなったら、かなり立派なローディーなのかもしれません。

なぜ100kmに揃えたくなるのか?

そもそも、なぜローディーは100kmという数字に妙な魅力を感じるのでしょうか。99kmでも運動量としては十分ですし、101kmだから急に偉くなるわけでもありません。それでも二桁から三桁へ変わる100kmには、ひとつの区切りとして分かりやすい達成感があります。ロードバイクを始めた頃に「いつか100km走ってみたい」と目標にした人も多く、初めて達成したロングライドの記憶と結び付いていることもあるでしょう。

サイコンや走行記録アプリの存在も、この感覚を強くします。以前なら帰宅して「今日はだいたい100km走った」で済んだかもしれませんが、現在は98.6kmなら98.6kmと容赦なく記録されます。走行履歴にもその数字が残るため、100km目前で終えると、誰に責められたわけでもないのに惜しい気持ちになります。99.8kmともなれば、もはや200m走らなかった自分を後から問い詰めたくなるレベルです。

さらに100kmは、人に話すときにも非常に分かりやすい数字です。「週末に98.6km走りました」より「100km走りました」のほうが簡潔で、自分自身にも一区切りついた感覚があります。これは速さや競技成績とは別の、自分で設定した小さなゴールです。月間走行距離が498kmなら500kmまで伸ばしたくなり、獲得標高が990mなら1000mまで登りたくなるのと似ています。数字が目標の直前まで来ると、最後まで埋めたくなるのです。

もちろん98.6kmで終了しても何の問題もありません。それでもサイコンに残された「あと少し」が気になってしまうのがローディーです。身体は十分走ったと訴えているのに、数字だけが「まだ終わっていませんよ」と語りかけてきます。100kmに揃えたいのは、その1.4kmに走行上の大きな意味があるからではありません。自分の中でライドにきれいな句点を打ちたいからこそ、わざわざ余計な距離まで走ってしまうのです。

家の周りを走り始めるローディー

100kmまで残りわずかとなれば、ローディーが取る行動はシンプルです。目的地だったはずの自宅を華麗にスルーし、そのまま近所へ消えていきます。ここから始まるのはサイクリングでもトレーニングでもありません。ただ走行距離の帳尻を合わせるためだけの、謎の追加走行です。いつもなら絶対に自転車では通らない住宅街を一周したり、一本先の交差点まで行って戻ったり、近所の公園をぐるりと回ったりします。

困るのは、狙った距離をぴったり稼ぐのが意外と難しいことです。「この道を回れば1kmくらいだろう」と適当に進んだものの、戻ってきたら99.7km。まだ300m足りません。仕方なくもう一度家の前を通過します。近所の人からすれば、サイクルジャージ姿の大人が同じ場所を何度も行ったり来たりしているだけです。本人には明確な使命がありますが、その事情を知らない人には不審な周回運動にしか見えないでしょう。

さらに面白いのが、ゴール目前になるとサイコンを確認する回数が急激に増えることです。99.6km、99.8km、99.9kmと数字が伸びるたびに視線を落とし、「もう少し」とペダルを回します。100kmを超えることが目的なので、本来なら100.1kmでも構わないはずですが、なぜか100.0km付近で終えたいという新たな欲まで生まれます。ここまで来ると距離を走っているのか、数字に走らされているのか分かりません。

そして100.0kmの表示を確認すると、ようやく本当の帰宅です。さっき一度家まで戻ってきたときとは違い、今度は迷いなくロードバイクから降りられます。家族に「さっき帰ってこなかった?」と聞かれても、「ちょっと距離が足りなかったから」と答えるしかありません。当然ながら、相手には何が足りなかったのか分からないでしょう。それでも本人は満足です。100kmを走った達成感というより、中途半端な数字を無事に処理できた爽快感を胸に、今度こそ玄関を開けるのです。

まとめ|100kmにしてから帰ります

98.6kmで終わっても、その日のライドが短くなるわけではありません。十分な距離を走り、疲労も達成感もたっぷり残っています。それでも100kmが目前に見えてしまったら、あと1.4kmを足したくなるのがローディーというものです。合理的に考えれば、そのままロードバイクを降りてしまって何の問題もありません。しかし趣味というものは、いつだって合理性だけでは片付けられません。

100kmという数字に特別な価値があるかと聞かれれば、答えに困ります。レースの順位が上がるわけでも、走力が突然伸びるわけでもありません。それでも自分の中では「今日は100km走った」と気持ちよく締めくくれます。誰かに褒めてもらうためではなく、自分自身が納得するための最後のひと手間です。

ですから自宅へ戻ってきたとき、サイコンが98.6kmを示していたらどうするのか。答えはもう決まっています。家の前を通り過ぎ、近所を適当にぐるっと回り、100kmを超えたことを確認してから戻ってきます。家族には理解されないかもしれませんし、近所から見れば意味不明な行動かもしれません。それでも構いません。せっかくここまで走ったのですから、あと1.4kmくらい付き合いましょう。今日のライドは、100kmにしてから帰ります。

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