グループライドって楽しいんです。特にこの季節は走っていて心地よいし、心も弾むし。そう、とても楽しいし大好きなんですが、最大の難点がひとつだけあるのです。
そう、一緒に走る相手がいないこと。特に女性は。
真面目な話、ロードバイクに乗るときって99%は一人で走りますよね。“友だち0人”説は言い過ぎかもしれませんが、社会人になると貴重なライド友だちともなかなか予定合わなかったりしますし。今回はそんな孤高の趣味、ロードバイクの単独走について触れたいと思います。
誘う相手がいない希薄な人間関係
ロードバイクに乗っていると、なぜか人とのつながりまで充実している気になりがちです。SNSには仲間との集合写真、カフェライド、イベント完走後の笑顔が並び、さもロードバイク界隈が友情と連帯の楽園であるかのように見えます。ですが現実には、休日の朝に気軽に声をかけられる相手が一人もいないまま、今日も黙ってサドルにまたがる人がかなりいます。
そもそもロードバイクは、趣味としては妙に面倒です。集合時間はやたら早い、距離感は人によって違う、脚力差があると空気が悪くなる、休憩の長さですら思想が分かれます。そんな繊細すぎる趣味で安定した人間関係が育つほうがむしろ奇跡です。少し仲良くなった程度では一緒に走れませんし、一緒に走ったところで今度は実力差や機材差で微妙な空気になります。結果として残るのは、知り合いはいるけれど誘える相手はいないという、実に味わい深い関係性です。
しかも本人たちは、それをあまり認めたがりません。ただ一人で走っているのではなく、自分のペースを大切にしているだけです、気を遣わないライドが好きなだけです、とそれっぽい言い方で包みます。たいへん結構ですが、本当に人間関係が豊かなら、その選択肢の中に誰かと走る日も自然に入ってくるはずです。毎回ソロライドしか予定が埋まらないのは、自由を愛しているからというより、単に声をかける相手も、声をかけてくれる相手もいないだけかもしれません。
ロードバイク界隈には、薄く広くつながっているようで、実際には驚くほど乾いた関係が少なくありません。会えば挨拶はする、SNSではいいねも押す、でも一緒に走るほどではない。実に便利で、実に浅いです。そうやって今日もまた、仲間がいる風の空気だけをまといながら、実態は一人でコンビニ休憩をしているわけです。孤独ではない、ただ単独なだけ。そんな苦しい言い換えにしがみつく姿まで含めて、いかにもロードバイクらしい寂しさです。
ぼっち走を孤高と呼び変える哀れな自己暗示
一人で走っている事実そのものは変わらないのに、言い方だけはやたら立派になるのがロードバイク界隈の味わい深いところです。誰にも誘われず、誰も誘わず、結果として今日も単独で走っているだけなのに、それをぼっちとは呼ばず、孤高と表現し始めた瞬間から話が妙に香ばしくなります。そこには現実を直視したくない切実さと、どうにかして寂しさに高級感を与えたい涙ぐましい努力がにじんでいます。
本当に孤高な人は、自分で孤高などと言いません。黙って走り、黙って帰り、余計な演出も不要です。ですが界隈には、一人でいる理由をやたらと哲学っぽく語りたがる人がいます。群れるのが苦手、自分のペースを大事にしたい、他人に合わせると本質を見失うなど、言葉だけはずいぶん崇高です。たいへん結構ですが、その実態はただ協調性がなく、予定を合わせる相手もおらず、集団で走ると気を遣うから逃げているだけだったりします。
しかも厄介なのは、この自己暗示が本人をわりと本気で安心させてしまうことです。一人である現実を、選ばれし者のスタイルへ変換できれば、惨めさを感じずに済みます。友達がいないのではない、自ら群れないのだ。置いていかれたのではない、自分から距離を置いているのだ。そうやって言い換えを重ねるほど、実像からはどんどん遠ざかっていきます。もはやライドというより、自尊心のメンテナンス走です。
ロードバイクは、こうした美しい言い換えと非常に相性の良い趣味です。苦しいだけの坂は修行になり、誰にも相手にされない単独走は精神性へ昇華されます。便利な世界です。ですがその崇高な演出を少し剥がしてみれば、そこにいるのは景色に酔っているのでも哲学しているのでもなく、ただコンビニで一人補給食を食べながらスマホをいじっている中年か若手です。孤高という言葉は実に便利ですが、ぼっちの切なさまで消してくれるほど高性能ではありません。
壁の高級機材と虚空に語りかける至福の虚無
部屋の壁に整然と掛けられた高級機材を眺めている時間ほど、充実しているようで何も満たされていない瞬間はありません。フレームの造形、ホイールの質感、コンポの輝きにうっとりしながら、誰にも聞かれていないのにスペックや軽量化の成果を語り始めるあの時間です。相手は壁と空気だけですが、本人の中ではなぜか会話が成立しています。
この状態に入ると、もはや走るかどうかは重要ではなくなります。実際に使う時間より、眺めている時間のほうが長いという逆転現象すら起きます。数十万円単位で積み上げた機材に囲まれながら、その価値を共有する相手は不在です。それでも満足しているように見えるのは、満足しているのではなく、そう思い込むしかないからです。
しかも本人は、この時間をとても上質な趣味のひとときだと認識しています。静かな部屋で愛車と向き合う贅沢な時間などと表現し始めたら、もう完全に仕上がっています。誰かと走るでもなく、誰かに見せるでもなく、ただ壁に掛けた自転車に向かって語りかけるだけの時間が、なぜか人生の充実としてカウントされていきます。
ロードバイク界隈では、この光景が特別なものではなく、むしろあるあるとして成立しているのがまた味わい深いところです。外では孤独に走り、家では無言の機材に語りかける。そこにあるのは至福というより、かなり丁寧に仕上げられた虚無です。高級機材は確かに素晴らしいですが、それを共有する相手がいないままでは、最終的に残るのは静かすぎる部屋と、妙に饒舌な独り言だけです。
誰も興味ないログを世界に晒す承認欲求の沼
今日もまた、走行距離、平均速度、獲得標高、消費カロリーが丁寧に並んだログが世界へ向けて放流されていきます。本人は達成の記録として誇らしげですが、見る側からすると、正直そこまで他人の朝練の数字に感情は動きません。にもかかわらず、ロードバイク界隈ではこの誰得データの公開が、なぜか極めて重要な営みとして扱われています。
しかも厄介なのは、ただ記録しているだけでは終わらないことです。今日は脚が重かった、向かい風がきつかった、でも最後まで踏み切ったなどと添え始めることで、単なる数字の羅列に急に人間ドラマの空気をまとわせてきます。たいへん結構ですが、見ている側の多くは、そこまで他人の乳酸事情に関心を持っていません。それでも投稿は止まりません。なぜなら記録ではなく、反応が欲しいからです。
いいねが付けば少し救われ、反応が薄ければ投稿時間や文体を見直し、たまに褒められればますます加速していきます。もはやログを残しているのではなく、自尊心の点検結果を毎回アップしているようなものです。走った事実そのものより、その結果を誰かに見てもらえたかどうかのほうが大事になってくると、だいぶ深いところまで沈んでいます。
ロードバイクは本来、一人で完結できる趣味のはずです。にもかかわらず、その孤独に耐えきれず、毎回データを世界へ投げて反応を待つ姿はなかなか味わい深いです。誰も興味ないと言い切ると少し可哀想ですが、少なくとも本人が思っているほど、世界はその平均速度に心を震わせてはいません。それでも今日もまた、渾身のログが静かに投稿され、同じ界隈の似た者同士が互いの承認欲求を優しく撫で合っているのです。
周囲と会話が噛み合わない絶望
ロードバイクに深くハマった人ほど、日常会話の中でじわじわ浮いていきます。本人はただ楽しく話しているだけのつもりでも、相手からすると、突然ケイデンスだの巡航だのディープリムだのと言われても、何ひとつ情景が浮かびません。こちらは熱量たっぷりに語っているのに、向こうの返事は「すごいですね」で止まります。実に切ないですが、かなりよくある光景です。
しかも厄介なのは、本人がその温度差に鈍感になりやすいことです。普通の人にとってロードバイクは、速そうな自転車くらいの認識で終わることが大半です。ところが界隈にどっぷり浸かった人は、ホイールの違いで人生観まで変わる勢いで語り始めます。フレーム剛性の話を振れば相手も面白がると思い込み、ヒルクライムのタイム短縮を共有すれば何かが伝わると信じています。その純粋さは尊いですが、会話としてはだいぶ事故です。
さらに悲しいのは、ようやく同じ趣味の人を見つけても、今度は逆方向で噛み合わなくなることです。こちらは雑談のつもりでも、相手は機材マウントを始め、別の相手は脚力の話に寄せ、また別の人はレースの話しか興味がありません。同じロードバイク乗りなのに、話題が微妙にずれ続けるあの感じです。仲間内ですら通じ合えないのですから、一般社会と綺麗に接続できるはずがありません。
その結果として生まれるのが、誰とも深く噛み合わないまま、ひたすら自分の好きな話だけが肥大化していく孤独です。会社では軽く流され、家では興味を持たれず、SNSでは似たような人同士で薄く反応し合うだけです。ロードバイクは人を遠くへ連れて行く趣味だと言われますが、会話の世界でもしっかり遠くへ行ってしまうようです。気づけば本人だけが前のめりで話し、周囲はうっすら引いている。その温度差こそ、サイクリストの孤独を最も生々しく物語っているのかもしれません。
峠で自撮り棒を掲げる救いようのない自己愛
峠の頂上に着いた瞬間、本当に欲しかったのは達成感ではなく、自分が頑張っている姿の記録だったのではないかと思わせる人がいます。息を整えるより先にスマホを取り出し、景色を見るより先に角度を探し、自転車を置く位置まで妙に計算し始めたら、もうだいぶ仕上がっています。そこで高々と掲げられる自撮り棒は、もはや撮影機材というより、自己愛の旗です。
もちろん記念写真そのものが悪いわけではありません。問題は、その一枚に込められた熱量が妙に重たいことです。苦労して登った自分、絵になる愛車、頑張っている私という物語を、誰よりも自分自身が熱心に演出しています。しかも本人はそれを自然体だと思っているので厄介です。ただ景色と記録を残したいだけですと言いながら、実際には表情、ポーズ、背景、バイクのロゴの向きまできっちり管理しています。
このあたりになると、峠は走る場所というより、自分を作品化するスタジオへ変わります。誰も頼んでいないのに何枚も撮り直し、少しでも脚が細く見える角度を探し、汗すら努力の証として美しく処理したがります。そこまで来ると、ライドの主役は風景でも走行でもなく、完全に自分です。ロードバイクに乗っているのか、自分という存在を運んでいるのか、だんだん境界が怪しくなってきます。
しかもその写真が投稿されたあとには、さらに味わい深い物語が待っています。今日も自分と向き合えました、自然の中で心が整いましたなどと、妙に澄ました文章が添えられます。たいへん結構ですが、その数分前まで必死に自撮り棒を伸ばしていた事実がある以上、こちらとしては心が整ったというより画角が整っただけではないかと思ってしまいます。
ロードバイク界隈には、自分を追い込むことに酔う人と、自分に見惚れることに酔う人がいます。峠で自撮り棒を掲げる姿は、その両方が美しく合体した完成形です。苦しさも達成感も全部ひっくるめて、最後にいちばん愛しているのは結局自分自身です。その救いようのなさまで含めて、実にロードバイクらしい光景です。
まとめ|孤独は欠点ではなく仕様です
ロードバイクに乗っていると、人との距離がなぜか絶妙に遠くなっていきます。仲間がいないわけではない、関係がないわけでもない、それでも一緒に走る機会はなぜか増えません。気づけば自分なりの理屈を積み上げながら、一人でいる状態をうまく正当化する技術だけが洗練されていきます。
しかもその過程は、どこかで誰もが一度は通る道です。人間関係の微妙さ、価値観のズレ、どうでもいいところでの気まずさを避け続けた結果、気楽さと引き換えに孤立が完成します。それを不便だと感じるか、快適だと思い込むかで、その後のスタンスが決まります。
ロードバイク界隈は、この状態をやたら美しく言い換えるのが得意です。孤独は自由になり、ぼっちは孤高になり、誰にも共感されない記録は努力の証に昇華されます。たいへん便利な世界ですが、その裏側にある現実はかなりシンプルです。誰とも深く関わらず、自分の世界の中で完結しているだけです。
結局のところ、この趣味は人を遠くへ連れて行くと同時に、人からも少しずつ遠ざけます。それでもやめないのは、孤独そのものに魅力があるというより、その状態があまりにも都合よく、居心地がいいからです。ロードバイクとは、風を切る乗り物であると同時に、人間関係をうまく薄めてくれる装置でもあります。そう考えると、この孤独は欠点ではなく、最初から組み込まれている仕様なのかもしれません。


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