冷静に考えてみた。ロードバイクに乗る意味はあるのか?

ロードバイクおぢ

ロードバイクという趣味は、なぜか「人生が変わる」「世界が広がる」とやたら壮大に語られがちです。気づけば高額なフレームに、さらに高額なホイール、そしてよくわからないまま増えていくパーツ類。週末は早朝集合、向かい風に苦しみ、帰宅後は脚を引きずりながら満足げにログをアップする。外から見れば、わざわざお金と時間をかけて疲れに行っているようにも見えます。

それでも界隈では「これが楽しいんだよ」で全てが片付く不思議な世界。今回は一度その熱量を横に置き、あえて冷めた視点から、この趣味にどれだけの意味があるのかを見ていきます。

ロードバイクに乗る意味とは何か

ロードバイクに乗る意味とは何か。そんなもの、冷静に考えれば考えるほど怪しくなってきます。移動だけを考えるなら、別にママチャリでも電車でも車でも済みます。健康のためと言いながら、なぜか数十万円から数百万円の機材を買い、空気抵抗を減らすためにぴちぴちの格好になり、休日の朝っぱらからわざわざ坂を登って苦しんでいるのですから、端から見ればだいぶ様子がおかしい趣味です。

しかも界隈に入ると、その「意味」はさらにややこしくなります。ただ走るだけでは済まず、軽さがどうだの、剛性がどうだの、巡航がどうだのと、急に評論家みたいな顔をした人たちが現れます。本人はいたって真面目ですが、一般人から見れば、自転車に乗るために自転車の話を延々としている、なかなか濃い世界です。要するにロードバイクに乗る意味とは、実用性や合理性だけで説明できるような立派なものではなく、自分で勝手に盛り上がって、自分で勝手に納得するための理由探しでもあるわけです。

では無意味なのかといえば、そこもまた厄介です。風を受けて走る気持ちよさ、遠くまで自力で行ける達成感、昨日の自分より少しだけ速くなれた気がするあの感覚。そういう、いかにも本人にしかわからない満足があるから、みな懲りずにまた乗るのです。周囲から見れば「なんでそんなに金と時間をかけて疲れているのか」としか思えなくても、乗っている本人だけは妙に満ち足りた顔をしている。ロードバイクに乗る意味とは、たぶんその程度のものです。そして界隈の人たちは、その「その程度のもの」をやたら大げさに語るのが大好きなのです。

コストとリスクを冷静に見てみる

コストとリスクを冷静に見てみると、ロードバイクという趣味はずいぶん景気のいい話です。まず本体を買って終わりではありません。ヘルメット、ライト、ウェア、ビブ、シューズ、ペダル、サイコン、鍵、ポンプ、工具、予備チューブ。買った瞬間から「とりあえず必要なもの」が次々に湧いてきます。しかも界隈は恐ろしいもので、最初は「入門用で十分です」と言っていたはずなのに、少し慣れたころには「やはりホイールは変えたいですね」「そのうちパワーメーターも欲しいですね」と、当然のように追加出費のレールへ乗せてきます。財布の軽量化だけは、みな驚くほど熱心です。

しかも金をかけたからといって、日常が劇的に便利になるわけでもありません。むしろ高い金を払って、盗難におびえ、落車におびえ、消耗品の値上がりにおびえ、ちょっとした立ちゴケで心まで削られる繊細な趣味が完成します。ママチャリなら雑に停めてもそこまで気にしないのに、ロードバイクになると急に宝石みたいな扱いになるのです。走っているときは「自由だ」とか言いながら、実際には傷、盗難、パンク、チェーン落ち、交通トラブルに神経をすり減らしているのですから、なかなか味わい深い世界です。

さらにリスクはお金だけではありません。車道を走れば車が怖い、歩道に逃げれば歩行者に気を遣う、路肩には段差や排水溝、風が吹けばふらつき、雨が降れば滑る。趣味の時間のはずなのに、やっていることはずっと危険予知トレーニングみたいなものです。そのうえ近年は交通ルールも厳しくなり、うっかりや雑な乗り方がそのまま反則金につながる時代になりました。つまりロードバイクとは、高額な機材を買って、わざわざ危ない場所へ自分から出ていき、細心の注意を払いながら疲れて帰ってくる遊びでもあります。冷静に並べるほど、だいぶ割に合わない話です。

それでも界隈の人たちは、この割に合わなさをあまり真正面から見ません。なぜなら、見た瞬間に少し正気へ戻ってしまうからです。なので「健康にいい」「自分への投資」「人生が豊かになる」と、なるべく聞こえのいい言葉を並べて包みます。もちろん間違いではありません。ただ、その裏側でかなりの金とリスクを笑顔で飲み込んでいることもまた事実です。

ロードバイク界隈とは、趣味という名目で出費と危険を美談に変換する、なかなか完成度の高い世界だと言えます。

健康や趣味としての価値

健康や趣味としての価値は、たしかにあります。ここを完全に否定してしまうと、さすがに話が雑になります。ロードバイクは有酸素運動として優秀ですし、継続して乗れば心肺機能の向上も期待できます。景色は流れますし、季節も感じられますし、ただ部屋でじっとしているよりは、よほど健全です。少なくとも、休日をソファの上で溶かすよりは「何かした感」がしっかり残るので、本人の満足度は高くなりやすいです。

ただし、ここからがロードバイク界隈らしいところです。健康のために始めたはずなのに、なぜか途中から心拍だのパワーだのケイデンスだのと言い出し、気づけば楽しむというより管理されにいく趣味へ変わっていきます。本来は体を動かして気分よくなれば十分なはずなのに、界隈に染まると「今日は全然踏めませんでした」「この数値では話になりません」などと、趣味なのに反省会まで始まります。健康になりに行ったはずが、メンタルを削って帰ってくるあたり、実に効率的です。

趣味として見ても、ロードバイクはなかなかよくできています。機材、ウェア、コース、イベント、SNS、仲間内の会話まで、沼の入り口が豊富です。乗って楽しい、見て楽しい、買って楽しい、比べて楽しい。要するに、金も時間も吸い込む仕組みが非常によく整っています。そのため本人は「充実した趣味です」と胸を張りますが、外から見れば、高い金を払って苦しみ、さらにその苦しみを嬉しそうに語っているだけにも見えます。なかなか強い世界です。

とはいえ、それでも価値があると感じる人が多いのは事実です。走り終えたあとの妙な達成感や、遠くまで自力で行けた満足感、昨日より少しだけ楽に走れた感覚は、たしかに気持ちがいいのです。界隈はだいぶ面倒くさいですが、乗ること自体の快感まで嘘ではありません。健康にもよく、趣味としても深い。ただしその過程で、必要以上に意識が高くなったり、機材に人格を乗せ始めたり、数値でしか自分を見られなくなったりするのがロードバイク界隈の困ったところです。健康的な趣味のはずなのに、どこか不健康なこじらせ方をしやすい。それもまた、この趣味の味です。

それでもロードバイクに乗る理由

ここまで冷静に見てくると、「じゃあ乗る意味あるのか」という話になりますが、それでも乗る人はやめません。理由はシンプルで、合理とかコスパとかを一通り踏み抜いたうえで、それでも気持ちいいからです。風を切って走るあの感覚や、何も考えずにペダルを回している時間は、説明しようとすると急に薄っぺらくなりますが、実際に体験すると妙に癖になります。理屈で否定したはずなのに、気づけばまたサドルの上にいる。なかなか厄介な構造です。

さらに界隈にいると、「もう少し速くなりたい」「次はあの峠を越えたい」と、微妙に手が届きそうな目標が次々に出てきます。この“あと一歩感”が絶妙で、完全に満足させてくれないくせに、やめるほどの不満も与えてこない。結果として、延々と続けてしまいます。しかもそれを支えるのが、機材という名の言い訳です。「ホイールを変えればいける」「ポジションを見直せば変わる」と、努力と出費が綺麗にセットになっているので、やめどきが見つかりません。

そしてもうひとつ大きいのが、界隈特有の“共有された空気”です。早朝に集まって走る、カフェで自転車を並べる、SNSにログを上げる。やっていること自体は大したことではないのに、なぜか一体感だけはやたら強い。この空気に一度馴染むと、「やめたら何かを失う気がする」という、よくわからない引力が働きます。実際にはそこまで大きなものを失うわけではないのですが、本人の中では妙に重く感じられるのです。

結局のところ、ロードバイクに乗る理由とは、きれいな言葉で説明できるものではありません。コストもリスクも理解したうえで、それでも乗ってしまう程度には楽しい。その“程度”がじわじわ効いて、気づけば生活の一部になっているだけです。外から見れば不思議でも、本人にとってはそれで十分。だから今日もまた、文句を言いながらサイコンを起動して走り出すのです。

まとめ|我々のロードバイク愛に意味はあるのか

ここまで冷静に見てきましたが、結論はわりとあっさりしています。ロードバイク愛に、わざわざ外に向けて誇れるような大した意味はありません。コスパは悪いですし、リスクもありますし、合理性だけで見ればもっと良い選択肢はいくらでもあります。それでも続けている時点で、「意味があるからやっている」というより、「やめる理由が見つからないから続いている」に近い趣味です。

しかも厄介なのは、その曖昧な愛情を、界隈全体でやたら立派に見せようとするところです。機材の話に格を持たせ、走力に価値を乗せ、ライドに物語を与える。本来はただの自転車遊びなのに、いつの間にか妙に重みのあるものに仕立て上げられています。もちろんそれ自体は悪いことではありませんが、外から見れば「ずいぶん大げさに楽しんでいるな」という印象になるのも無理はありません。

では無意味なのかといえば、そこもまた違います。本人にとっては確実に意味があります。休日に外へ出る理由になり、体を動かすきっかけになり、どうでもいいはずの数値に一喜一憂しながら、なぜか少しだけ満たされた気分になる。その程度の積み重ねが、結果的に生活の一部になっているだけです。高尚な理由は後付けで、最初からそんなものは必要なかったのかもしれません。

結局のところ、我々のロードバイク愛に明確な正解や正当性はありません。あるのは、割に合わないとわかっていても続けてしまう中毒性と、それをなぜか誇らしげに語る文化です。それでいいと思えているうちは、きっとやめないのでしょう。意味があるかどうかを気にしている時点で、もう十分にハマっている証拠です。

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