ロードバイクという趣味は、端から見れば「爽快な風を感じる自分探しの旅」のように見えるかもしれません。しかし、現実はそんなキラキラしたものではありません。数ミリのタイヤに命を預け、数グラムの軽量化に魂を売った我々が日々直面しているのは、絶え間なく襲いかかる理不尽なストレスの数々です。
高い機材を買えば買うほど、少しの不調や環境の変化に敏感になり、精神をすり減らしていく。そんな皮肉な状況を、世のサイクリストたちは「それもまた楽しみの一つ」と引きつった笑顔で語りますが、本音を言えば叫び出したい瞬間ばかりのはずです。
本記事では、ロードバイク乗りが公道という名の戦場で、どのような瞬間に殺意を覚え、あるいは絶望し、静かに心を折っているのかを徹底的に洗い出しました。読み進めるうちに「そう、これだよ!」と怒りが再燃するのか、あるいは「俺だけじゃなかった」と救われるのか。サイクリストの業の深さを、改めて浮き彫りにしていきます。
道路編:交通規則という名の地獄
ロードバイクという乗り物は、究極の効率を求めた結果、恐ろしく繊細な生き物になってしまいました。数ミリのタイヤ幅に命を預け、数グラムの軽量化に魂を売った我々にとって、日本の公道は決して優しい場所ではありません。
むしろ、一歩外に出ればそこは罠だらけの戦場です。高い金を払って手に入れたカーボンフレームの振動吸収性など、この国の劣悪なインフラの前では無力に等しいと言わざるを得ません。スムーズな加速を遮り、愛車の美しさを汚し、時には乗り手の脊髄に直接ダメージを与えてくるストレスの数々。
ここでは、そんなサイクリストの精神をガリガリと削り取る、道路という名の地獄の正体を暴いていきます。
信号機という名の絶対君主
せっかく時速30キロを超えて気持ちよく巡航し始めた矢先、目の前の信号が嘲笑うかのように黄色から赤へと変わる瞬間ほど、心拍数と一緒に血圧が上がることはありません。ロードバイク乗りにとって、信号機は単なる交通ルールではなく、走行のリズムを徹底的に破壊しに来る独裁者です。
特に悪質なのは、300メートルおきに設置された信号が絶妙なタイミングで次々と赤に変わるストップ・アンド・ゴーの連鎖です。クリートを外して足を地面につくたびに、それまで積み上げてきた平均時速という名のプライドが1キロずつ削り取られていく感覚は、精神衛生上非常によくありません。
さらに、軽量なカーボンバイクを愛する我々を絶望させるのが、感知式信号の存在です。車体も乗り手も極限まで絞り込んでいるせいで、アスファルトの下に埋められたセンサーがこちらの存在を物質として認識してくれず、永遠に青にならないという事態が起こります。もはや無視することもできず、後から来た車に「早くセンサーを踏んでくれ」と心の中で祈る時間は、屈辱以外の何物でもありません。
ガタガタな舗装路や溝との格闘する
高い金を払って手に入れた高級なカーボンフレームや、1セット何十万円もする超軽量ホイールも、日本の荒れたアスファルトの前ではただの震える棒に成り下がります。特に路肩に追いやられたサイクリストを待ち受けているのは、行政の怠慢を疑いたくなるような継ぎ接ぎだらけの舗装です。工事の跡が盛り上がり、ひび割れた路面を走るたびに、愛車から悲鳴のような振動が伝わり、脳みそまで揺さぶられる感覚には殺意すら覚えます。
さらに、我々の命を執拗に狙ってくるのがグレーチングと呼ばれる金属製の溝です。あの細い隙間は、まるでロードバイクのタイヤを飲み込むために設計されたのではないかと疑うほど、絶妙なサイズ感で口を開けて待っています。縦に隙間が走っているタイプを見つけた瞬間の冷や汗といったらありません。
それだけではありません。雨上がりのマンホールや、白線の上に浮いた砂利、さらには歩道との微妙な段差など、公道は我々を転倒させようとする悪意に満ちています。パンクの恐怖に怯えながら、振動で緩んでいくネジやライトを気にしつつ走る時間は、スポーツというよりもはや苦行に近いストレスと言えるでしょう。
突然現れる「行き止まり・通行止め」
見知らぬ土地を走り、地図アプリを頼りに最高のルートを見つけたと確信した瞬間に現れる通行止めの看板。これはサイクリストにとって、文字通り目の前でシャッターを下ろされるような絶望的な体験です。特に、何キロも続く厳しい坂を必死の思いで登り切った頂上で、無慈悲なフェンスと「この先通り抜け不可」の文字に出会った時の虚無感は言葉にできません。
引き返すということは、これまでに削り取ってきた体力と時間をすべてドブに捨てることを意味します。せっかく稼いだ標高を、何の達成感もなくただ下るだけの作業に変えられてしまうストレスは、もはや精神修養の域を超えています。地図上では繋がっているはずの細い道が、実際に行ってみると獣道同然だったり、私有地として閉鎖されていたりするのもよくある話です。
また、事前のリサーチでは完璧だったはずのサイクリングロードが、大規模な工事で数キロにわたって迂回を強いられるケースも厄介です。住宅街の迷路のような路地に放り出され、方位磁石を失ったかのように右往左往している間に、ライドのモチベーションは完全に枯渇してしまいます。冒険心という名の好奇心が、行き止まりという名の現実に叩き潰される瞬間は、何度経験しても慣れることはありません。
対・人間編:殺意と苦笑いの境界線
道路の上で我々を悩ませるのは、劣悪なインフラだけではありません。むしろ、感情を持った人間との関わりの方が、はるかに複雑で根の深いストレスを生み出します。自転車という共通の趣味を持っているはずの仲間内であっても、あるいは同じ道を共有するドライバーであっても、価値観のズレは時に激しい火花を散らす原因となります。
ロードバイクに乗っているというだけで、ある時は歩行者から邪魔者扱いされ、ある時は車から威圧的な視線を投げかけられます。また、コミュニティの内部に目を向ければ、そこには独自のヒエラルキーや暗黙の了解が存在し、それに振り回されることへの疲れも無視できません。
ここでは、純粋にペダルを回したいだけのサイクリストの心に土足で踏み込んでくる、人間関係という名の厄介な障害物について深掘りしていきます。善意やマナーという言葉の裏に隠された、なんとも言えない不快な瞬間の数々を振り返ってみましょう。
マウントおぢとの遭遇
信号待ちでの数秒間や休憩スポットでのひととき、頼んでもいないのに近づいてくるのが「マウント」おぢさんです。彼らはまず、こちらの機材を足元から頭の先まで品定めするようにジロジロと眺めてきます。コンポーネントのグレードやホイールの銘柄を確認し、自分の機材よりも安価だと判断した瞬間に、聞いてもいないアドバイスという名の攻撃を開始します。
「今の105も悪くないけど、やっぱりデュラエースじゃないとね」「そのフレーム、剛性が足りないんじゃない?」といった言葉の数々は、純粋にライドを楽しんでいるこちらの気分を台無しにするのに十分な破壊力を持っています。彼らにとって自転車は走るための道具ではなく、他者より優位に立つための武器であり、自分の承認欲求を満たすための道具に過ぎません。
さらに厄介なのは、こちらが最新の機材に乗っていたとしても「昔のクロモリこそが至高だ」と、独自の歴史観でマウントを取ってくるパターンです。結局のところ、彼らは自分の価値観を押し付けたいだけであり、対等なコミュニケーションを楽しむ気など毛頭ありません。去り際に「まあ、頑張ってね」と上から目線で言い放たれる瞬間の不快感は、どれだけ過酷な峠道よりも精神を消耗させます。
車の運転手から「自転車は歩道を走れ!」という無言の圧力
法律上、ロードバイクは軽車両として車道の左側を走るのが正解です。しかし、一部のドライバーにとって、車道を走るサイクリストはスムーズな進行を妨げる邪魔者でしかありません。後方からギリギリの距離で追い越されたり、これ見よがしにエンジンを吹かされたりするたびに、命の危険を感じると同時に激しいストレスが溜まります。
特に悪質なのは、歩道が整備されている区間で執拗にクラクションを鳴らされたり、窓を開けて怒鳴られたりするケースです。「自転車は歩道に行け」という彼らの理屈は、道路交通法よりも自分の利便性を優先した独りよがりなものです。段差や歩行者が多い歩道を、ロードバイクの速度で走ることがどれほど危険かを理解しようともせず、ただ自分たちの視界から消えろと言わんばかりの圧力をかけてきます。
車道の端に溜まった砂利やゴミを避けながら、背後から迫る数トンの鉄の塊に怯えて走る時間は、スポーツとしての爽快感を完全に奪い去ります。正しいルールに従っているはずのこちらが、なぜか肩身の狭い思いをしながらペダルを回し続けなければならない不条理。そんなドライバーに限って、自分が自転車に乗る時は平然と歩道で暴走していたりするから救えません。
微妙にペースが合わない人とのグループライド
仲間と一緒に走るのは楽しいはずですが、実力の僅かな差が、時には地獄のような苦行へと変わります。特に厄介なのが、お互いの巡航速度が時速2キロから3キロほどズレている場合です。前の人が出すペースが、自分にとっては全力で回さないと追いつけない強度だったとき、本来の景色を楽しむ余裕などは消え去り、ただ前の人の背中を呪いながらペダルを回すだけのマシーンと化します。
逆に、自分が先行しているときに後ろの人のペースが上がらず、何度も速度を落として調整するのもかなりのストレスです。加速しては緩め、加速しては緩めるという動作は、一定のペースで走り続けたいサイクリストにとって最も脚を削られる行為の一つです。お互いに気を使って「大丈夫ですか?」と声を掛け合いながらも、心の中では「早く終わってくれ」と願うあの空気感は、グループライド特有の気まずさを生み出します。
さらに、登り坂でのペース配分が致命的に合わないと、もはや修復不可能なレベルで精神が摩耗します。自分が死に物狂いで登っている横を、鼻歌でも歌いそうな余裕で抜いていく仲間の背中を見たとき、友情よりも先に「もう一人で走らせてくれ」という孤独への渇望が湧き上がってきます。楽しむために集まったはずなのに、解散する頃には体よりも心がボロボロになっている。それがペース配分という名の残酷な現実です。
機材・メカニック編:愛車が「ただの鉄屑」に見える時
ロードバイクは精密機械の集合体です。しかし、その精密さゆえに、ほんのわずかな不具合が生じるだけで、それまで信頼していた相棒が突然、得体の知れない金属の塊に見えてしまうことがあります。数グラム単位の軽量化や、コンマ数秒の変速性能を求めて大金を投じてきた努力が、たった一つのトラブルによってすべて無に帰す瞬間。それは、サイクリストにとって最も惨めで、情けない気持ちになる時間です。
自宅で丁寧に洗車し、完璧に注油して仕上げたはずの愛車が、いざフィールドに出た途端に牙を向いてくる。そんな裏切りは、私たちの自尊心を容赦なく打ち砕きます。高価な機材であればあるほど、それが正常に機能しない時のストレスは計り知れません。
ここでは、メカニックへの信頼が揺らぎ、走り続ける意欲が急速に萎えていく、機材トラブルという名の悪夢について具体的に見ていきましょう。物理的な故障以上に、乗り手の心を深く傷つける深刻な事態の数々をご紹介します。
謎の異音という精神疾患
どこからともなく聞こえてくる、パキパキ、あるいはカチカチという小さな音。それは一度耳に付いてしまうと、もはや走行中の楽しみをすべて奪い去る呪いの呪文に変わります。ロードバイクという静かな乗り物において、一定のリズムで刻まれる異音は、乗り手の精神をダイレクトに攻撃してくる最悪のノイズです。
この問題が厄介なのは、音の発生源を特定するのが極めて困難であるという点です。サドルから音がしていると思って座り直しても止まらず、ペダルを疑って交換しても解決せず、挙句の果てにはフレームの内部でワイヤーが暴れているのではないかと疑心暗鬼に陥ります。異音との戦いは、正解のない迷路を彷徨うようなもので、最終的には自分の耳や精神状態まで疑い始めることになります。
さらに追い打ちをかけるのが、ショップに持ち込んだ瞬間に音が消えるという現象です。整備士の前では借りてきた猫のように静まり返る愛車を見ていると、まるで自分が嘘をついているかのような、あるいは幻聴を聞いているかのような惨めな気持ちにさせられます。自宅に帰って走り出した途端、再びパキパキと鳴り始める異音。これに付き合っているうちに、愛車への執着が憎しみへと変わるまで、そう時間はかかりません。
チューブレス・チューブラーでのパンク
クリンチャータイヤであれば、予備のチューブに交換して再出発というシンプルな解決策があります。しかし、走行性能を追い求めた結果として辿り着いたチューブレスやチューブラータイヤでのパンクは、時としてその場でライド終了を告げる宣告となります。あの忌々しいプシューという音とともにシーラントが勢いよく吹き出し、フレームやウェアを白濁した液体で汚していく光景は、まさに地獄絵図です。
シーラントが穴を塞いでくれることを祈りながらホイールを回し続けるものの、無情にも空気圧が下がり続ける瞬間の絶望感は、他の何事にも代えがたいものがあります。チューブレスレディのタイヤを外そうとしても、ビードが固すぎて親指の皮が剥けそうになり、ようやく外れたと思えば手はベタベタのシーラントまみれ。さらに、出先でのビード上げという絶望的なミッションが待ち構えています。
チューブラーに至っては、スペアタイヤを持ち歩くか、あるいは強力な接着テープと格闘しながら貼り替えるという、もはや道端で行うレベルではない作業を強いられます。高価なタイヤがたった一箇所のカットでゴミと化し、数万円が路上の砂利に消えていく感覚。機材へのこだわりが強ければ強いほど、その代償として支払うことになるパンクのストレスは、財布と心の両方を激しく削り取っていきます。
突如として不機嫌になるディレイラー
昨日まではあんなに滑らかに決まっていた変速が、なぜか今日に限ってガリガリと不快な音を立て始めることがあります。特に、斜度が上がってきて最も軽いギアに頼りたくなったその瞬間に、チェーンがスプロケットの上を迷子のように彷徨い、一向に噛み合わない時の焦燥感は異常です。指先に力を込めても、期待したような小気味良いクリック感は返ってこず、ただ虚しくチェーンが金属を叩く音だけが峠に響き渡ります。
ワイヤーの伸びなのか、それともハンガーが僅かに曲がったのか、原因は不明ですが、一度不機嫌になったディレイラーを走行中に機嫌取りするのは至難の業です。微調整ボルトを回してみても、ハイ側を合わせればロー側が鳴り出し、ロー側を合わせれば中間層でチェーンが暴れ出すという無限ループに陥ります。この「あと一歩で完璧なのに合わない」というもどかしさは、完璧主義なサイクリストにとって耐え難いストレスです。
さらに最近の電子シフトであれば、突然のバッテリー切れという文字通りの沈黙が襲いかかります。変速ボタンを押しても無反応な愛車を前に、アウター×トップのまま坂に挑まされる絶望は、もはや罰ゲーム以外の何物でもありません。最先端の機材を使いこなしているつもりが、実は機材の機嫌を伺いながら走らされている自分に気づいたとき、その屈辱感はピークに達します。
ライド編:報われないサイクリスト
どれほど高価な機材を揃え、完璧な走行ルートを計画したとしても、自然という圧倒的な力の前で我々はあまりに無力です。ロードバイクというスポーツは、常に外の世界と対峙し続ける遊びであるがゆえに、自分ではコントロールできない外部要因によって、楽しかったはずの時間がいとも簡単に過酷なサバイバルへと変貌してしまいます。
追い風に乗って軽快に飛ばしていたはずの計画が崩れ、想定外の事態に翻弄されるとき、サイクリストの心は激しく折れ曲がります。努力が報われるどころか、走れば走るほど苦しみが増していく不条理な状況。それは、私たちがどれだけ自転車を愛していても、道や天候が必ずしもこちらを愛してくれているわけではないという、残酷な事実を突きつけてきます。
ここでは、乗り手のモチベーションを根底から破壊し、心拍数ではなくストレス値だけを急上昇させる、ライド中の報われない瞬間に焦点を当てていきます。どれだけ脚力があっても抗えない、自然と地形が仕掛けてくる悪意の数々を振り返ってみましょう。
突然降り出す雨
天気予報を何度も確認し、降水確率ゼロパーセントを信じて家を出たはずなのに、空が不穏な灰色に染まり始めた瞬間の嫌な予感は的中します。ポツリとヘルメットを叩く音が聞こえ、瞬く間に土砂降りへと変わる雨は、サイクリストにとって最も避けたい悲劇の一つです。せっかくピカピカに磨き上げた愛車が、路面の泥水を跳ね上げて砂利まみれになっていく様子を見るのは、心が引き裂かれるような思いがします。
雨のストレスは、単に体が濡れることだけではありません。カーボンリムのブレーキが効きにくくなる恐怖、視界を遮るアイウェアの水滴、そしてシューズの中が浸水してグチョグチョと音を立て始める不快感。これらが重なると、走ることの楽しさは一気に消え去り、ただの苦行へと成り下がります。特に、お気に入りの白いバーテープや高価なウェアが泥汚れで黒ずんでいくのを見る絶望感は、何物にも代えがたい苦痛です。
さらに悲惨なのは、雨上がりの路面です。空が晴れて太陽が出てきたとしても、アスファルトに残った水溜まりが容赦なく背中へ泥のラインを描き出します。帰宅した後に待っているのは、自分の体のケアではなく、泥と油でドロドロになった愛車を数時間かけて徹底的に洗浄するという重労働です。自然の気まぐれに翻弄され、走り終えた後の爽快感よりも疲労と虚無感が勝ってしまう。そんな雨のライドは、まさに報われない時間の象徴と言えるでしょう。
行きも向かい風、帰りも向かい風
サイクリストにとって風は、時には背中を押してくれる味方ですが、多くの場合において行く手を阻む最大の敵となります。特に、家を出た瞬間から強烈な向かい風に見舞われると、それだけで今日のライドを中止したくなるほどのストレスを感じます。どれだけ必死にペダルを回しても速度は上がらず、まるで誰かに後ろからジャージを引っ張られているかのような感覚に陥り、心拍数だけが無駄に上昇していきます。
しかし、我々を支えるのは「行きが向かい風なら、帰りは追い風になって楽ができるはずだ」という唯一の希望です。その希望を胸に、歯を食いしばって目的地まで辿り着き、いざ折り返した瞬間に風向きが変わる、あるいは風そのものが巻いていることに気づいたときの絶望感は、言葉では言い表せません。帰り道も変わらず正面から叩きつけられる風。これはもはや自然現象ではなく、神が自分に与えた試練ではないかと疑いたくなります。
下り坂であるはずなのにペダルを回さないと進まないという不条理や、横風にハンドルを取られて冷や汗をかく時間。これらは身体的な疲労以上に、乗り手の精神を徹底的にへし折りに来ます。予定していた到着時間は大幅に遅れ、追い風によるボーナスタイムという幻想を打ち砕かれたまま、重い脚を動かし続ける帰路。これほどまでに自分の無力さを痛感させられ、虚無感に襲われるライドは他にありません。
登って、下って、また登って(怒)
山の頂上を目指すヒルクライムにおいて、サイクリストを最も怒らせるのは勾配のきつさではありません。せっかく苦労して手に入れた標高を、無慈悲に削り取っていく下り返しの存在です。視界が開け、ようやく登り切ったと思った瞬間に現れる急な下り坂。その先に見える、さらに高くそびえ立つ次の登り坂の姿を確認したとき、人は自分の選んだルートを心底呪うことになります。
下った分だけ再び登り直さなければならないという事実は、効率を重視する人間にとって耐えがたい損失です。重力に従って一瞬で消費される位置エネルギーと、それを再び蓄えるために必要な膨大なワット数。その不毛な計算が頭をよぎるたびに、ペダルを踏む脚はどんどん重くなっていきます。目的地に近づいている実感が持てず、同じ場所を足踏みさせられているような感覚は、持久系スポーツにおいて最も精神を摩耗させる要素です。
さらに、こうしたレイアウトの道に限って、下りは路面が荒れていて神経を使い、登りは壁のような激坂が待ち構えているものです。繰り返される高強度の負荷に膝や腰が悲鳴を上げ、視界に入るのはただのアスファルトと、絶望的なカーブの連続。どれだけ頑張っても報われない、無限ループのような地形に放り込まれたとき、もはやスポーツとしての達成感などは消え失せ、残るのは純粋な怒りと、早く家に帰りたいという切実な願いだけになります。
まとめ:それでもペダルを回す変態たち
ここまで、ロードバイク乗りが遭遇する数々のストレスについて書き連ねてきました。道路の不備に憤り、人間関係の機微に疲れ、機材の反乱に絶望し、自然の猛威に膝を屈する。冷静に客観的な視点で振り返ってみれば、これほどまでに金と時間をかけて不快な思いを買いに行っている趣味も珍しいのではないでしょうか。普通の感覚を持った人であれば、一度体験しただけで二度とサドルに跨ることはないはずです。
しかし、私たちはどれだけ酷い目に遭っても、数日経てばまた嬉々としてヘルメットを被り、ピチピチのウェアに身を包んで外へと飛び出していきます。雨に打たれて泥まみれになり、向かい風に心を折られ、謎の異音に精神を病んでも、たった一度の爽快なダウンヒルや、山頂で飲む冷えたコーラの味、あるいは完璧に決まった変速の感触だけで、すべての苦痛を帳消しにしてしまうのです。
この「喉元過ぎれば熱さを忘れる」を地で行く性質こそが、サイクリストが変態と呼ばれる所以でしょう。ストレスを燃料に変え、苦行を娯楽として消費する。そんな救いようのない人々が集まるこの界隈は、今日もまた誰かの呪詛の声と、乾いたラチェット音に包まれています。
結局のところ、私たちはこの不自由で不条理な乗り物が、嫌いになれるほど賢くはできていないようです。



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