なぜデローザ乗りはカンパを妄信するのか?|“情熱と伝統”を語りたいだけのデローザおぢ

ロードバイクおぢ

「ロードバイクはデローザとカンパ以外はありえない」──そう信じて疑わないのが、世に言う“デローザおぢ”である。

彼らはフレームを磨く手よりも、カンパニョーロを語る口の方がよく動く。コンポもホイールも「カンパ以外は人権なし」と言い切り、シマノを付けている人を見ると「まあFulcrumならギリ許す」と謎の上から目線を発動。

しかもその本人のバイクも、だいたいChorusかCentaurの完成車グレードで止まっているという現実。走力は初級ローディレベル、財布は軽量級、情熱だけはスーパーレコード。今日もどこかのサイクリングロードで「カンパの変速フィールは情熱そのもの」と語りながら、時速23kmでイタリアの風を感じている。

彼らがなぜここまで“カンパ信仰”に取り憑かれるのか?そこには、性能を超えた“浪漫と自己演出”の物語がある。
このページでは、そんな痛くて愛しいイタリアン信者系デローザおぢたちの心のメカニズムを、余すことなく解体していく。

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デローザ×カンパニョーロがおぢの魂を支配する

デローザとカンパニョーロ。この2つの名前を並べるだけで、イタリアン魂が爆発してしまうのがデローザおぢである。彼らにとって、この組み合わせは単なるロードバイクではなく、「情熱」「伝統」「職人の血」が混ざり合った芸術作品なのだ。

デローザは1950年代のミラノで生まれ、フレームにハートマークを刻むほど“愛”をブランドの軸に据えたメーカー。

一方のカンパニョーロは1933年創業のコンポーネント界の巨匠であり、「技術よりも魂で変速する」と言わんばかりの職人気質を貫いてきた。

その両者を組み合わせた瞬間、デローザおぢの脳内では「これぞ正統派イタリアンロード!」という幻のファンファーレが鳴り響く。フレームがイタリア製ならコンポもイタリア製であるべき、という血統主義がそこにはある。

シマノを付けると“魂が薄まる”と本気で思っており、ディスクブレーキ化なんて「情熱を冷やす行為」だと語る。彼らにとってカンパニョーロは単なる機材ではなく、“デローザという宗教を完成させる聖具”なのだ。

だから、どれだけ整備性が悪くても、変速のクリックが重くても、それすら「これがイタリアの味」と自分に言い聞かせて悦に入る。要するに、デローザ×カンパは彼らのプライドであり、同時に自己演出の装置でもある。性能より物語、速さより浪漫──それがデローザおぢがこの“イタリア連合”に人生を捧げる理由である。

イタリアブランドの血統|DE ROSAとCampagnoloの共鳴関係

イタリアのロードバイク文化を語るうえで、DE ROSAとCampagnoloの存在は切っても切れない。どちらも“量産ではなく芸術”を志した職人気質のブランドであり、合理性よりも「情熱」や「美学」を信じてきた。

DE ROSAは創業者ウーゴ・デ・ローザが「速さよりも美しさ」を掲げたことで知られ、フレームに宿る曲線や溶接痕の仕上げまでが一種のアートとされてきた。

一方のCampagnoloも、1930年代から「機能を超えた造形美」でロードバイク界をリードしてきた存在だ。両者に共通しているのは、“走ることそのものを儀式化する”というイタリア的な哲学である。

だからこそDE ROSAのフレームにCampagnoloのコンポを組み合わせると、単なる性能の話ではなく「イタリアの精神性を継承する行為」として意味を持つ。どちらも流行やレース結果で価値を測るブランドではなく「伝統」「誇り」「手仕事」という抽象的な概念で語られる。

デローザおぢがその美学に惹かれるのも無理はない。彼らは機材を買っているのではなく、“イタリアの歴史”を所有しているつもりなのだ。

“イタリアン純正”という宗教的価値観

デローザおぢにとって、「イタリアン純正」とは信仰であり、美学であり、もはや宗教だ。DE ROSAのフレームにシマノを付けるなどという行為は、彼らの中では“異端審問レベルの冒涜”に等しい。

カンパニョーロで統一してこそ、バイクが“魂を持つ”と本気で信じているのだ。彼らは「イタリアンフレームに日本製コンポ?それはカルボナーラに生クリーム入れるようなもの」と言い切る。そして本人もその例えに満足してしまう。

たとえ変速が重くても、補修部品が手に入らなくても、それは「試練」なのだ。DE ROSA乗りにとって、メカトラすらも“イタリアと向き合う時間”として昇華される。そこに合理性やコスパの概念は存在しない。

重要なのは「俺のバイクは全部イタリア製なんだ」と言えること。つまり、“純正”とは性能の話ではなく、自分のアイデンティティを構成するための魔法の言葉である。デローザおぢは今日もその呪文を唱えながら、シマノユーザーを横目に「やっぱカンパのクリック感は情熱が違う」とほほ笑むのだ。

コンポ編|カンパ信仰が生まれるメンタリティ

デローザおぢがカンパニョーロを愛してやまない理由は、性能や軽さではない。むしろ「合理性から最も遠い」からこそ惹かれているのだ。カンパは変速が軽くも速くもないが、そこに“手応え”と“歴史”がある。そのクリック感に、彼らはなぜか魂の波動を感じ取ってしまう。スムーズさよりも、「ひと押しにドラマがある」ことを尊ぶのがデローザおぢの感性だ。

つまり彼らにとって変速とは、機能ではなく儀式。ペダルを踏むたび、イタリアの風が背中を押してくれる“気がする”のだ。さらに、カンパのメカニカルな構造美や複雑さもまた、彼らのプライドを刺激する。「理解できない人にはわからなくていい」という閉じた世界観の中で、自分だけが“選ばれし少数派”であることを実感できるからだ。

結果として「扱いにくい=本物」という歪んだ公式が成立し、いつしかそれが信仰へと変わっていく。カンパを使うこと自体が目的化し、走ることより“語ること”が中心になる。デローザおぢのメンタリティとは、端的に言えば「機材に浪漫を投影し、自分をアート作品だと思っている中年ローディの自己表現」である。

デローザおぢ的“許せるライン”とは

デローザおぢは「カンパ以外人権なし」と豪語するが、現実はそう単純ではない。新車購入時にコンポがシマノでも、そこに「カンパの魂が宿っていればセーフ」という謎ルールを適用するのが常だ。つまり“完全敗北”ではなく、“精神的勝利”で乗り切るのがデローザおぢ流の処世術である。

最も多いのは「コンポはシマノだけどホイールがFulcrumだから許される」パターン。Fulcrumはカンパの子会社という事実を盾に、「これは実質カンパ」と言い張る姿勢はもはや宗教的解釈レベルだ。中には「ブレーキだけでもカンパならセーフ」など、もはや“儀式”に近いラインまで自己正当化が進行する者もいる。

彼らにとって重要なのは、実際にカンパを使っているかどうかではなく、“カンパと共にある気分”を保つこと。だから整備性や価格の問題でシマノを選んでも、心の中では常にウーゴ(DE ROSA創業者)とトゥーリオ(Campagnolo創業者)に祈りを捧げている。理想と現実の間で揺れながらも、彼らはこう言うのだ。「俺のバイクにはイタリアの血が流れている(たぶん)」。

ホイール編|BORA・HYPERON・SHAMAL・ZONDAに宿る“おぢの美学”

デローザおぢにとって、カンパニョーロのホイールは単なる走行パーツではない。それは「イタリア魂を地面に伝える聖具」であり、ホイールの選択こそが信仰の深さを物語る。

中でもBORA、HYPERON、SHAMAL、ZONDAはデローザおぢの聖遺物として神格化されている。BORAを履けば“選ばれし者”の風格、HYPERONなら“山に捧げる情熱と狂気”、SHAMALは“職人の香り”、ZONDAは“最初に買うなら”として崇められる。

どれもカンパ特有のアルファベットロゴが入った瞬間に、デローザおぢのテンションはボルテージMAX。「脚よりホイールが回ってる」と冷やかされても、その誇らしげな顔は止まらない。彼らにとってホイール選びは機能ではなく“精神性”であり、リムの光沢ひとつで人生が変わるレベルの重大事だ。

しかも、どのホイールを履いていても結論は同じ──「やっぱカンパの回転は情熱が違う」。科学的根拠などない。だが、回っているのは確かに情熱である。性能よりも歴史、軽量化よりも物語。おぢたちは、今日もホイールを磨きながら「これは走るアートだ」と本気で呟くのだ。

ホイールにもイタリアン血統主義がある

デローザおぢの世界では、ホイールにまで“血統”の概念が存在する。カンパニョーロのフリーボディでなければ認めない、Fulcrumはギリ許す、シマノフリーは“異端”──この序列がすべての基準だ。

おぢたちにとってBORAやZONDAはただの機材ではなく、イタリア製ロードバイクとしての純血を証明する「血統書」みたいなもの。ゆえに、同じモデルでも「日本仕様」と聞いただけでテンションが7割下がる。

さらにディスクブレーキモデルに至っては「魂が削がれる」と真顔で語るのだから重症だ。彼らの脳内では、カーボンリムよりも銀リムの方が“伝統”を語れると信じられており、リムブレーキのBORAを履いていればそれだけで“古き良きイタリアン”を名乗れる気分になる。

性能的には新型ホイールに完敗でも、「クラシックこそ本物」という謎のロマン補正がすべてを上書きしてくれるのだ。つまり、デローザおぢにとってホイールとは走る道具ではなく“家系”であり、血統を守ることこそが誇り。最新技術に浮気する者を「情熱を失った裏切り者」と呼ぶその姿勢は、もはやロードバイク版マフィアのようである。

“少数派であること”の誇り|他人と違う俺かっけー

デローザを選ぶという行為自体が、すでに“少数派の証”である。創業1950年代、いまなお家族経営を貫く職人気質のブランド。大量生産とは無縁で、年々新モデルの流通量も限られている。つまり、デローザを所有しているだけで「希少な存在を理解できる俺」という優越感が手に入るのだ。しかも価格帯も高く、完成車は軽く200万円を超えることも珍しくない。

庶民感覚からは一歩も二歩も外れているが、それこそがデローザおぢの求めるステータス。「このバイク、街でまず被らないんだよね」とドヤるその表情は、まるで限定スニーカーを履いた中年男子のようである。彼らはスピードを求めているわけではない。

求めているのは“他人と違う俺”。流通量が少ないほど誇らしく、マイナーであるほど価値が高まるという、完全に逆張りのロマン経済で生きている。レース会場でも「やっぱデローザって少ないよね」と満足げに言いながら、実際にはその希少性が“孤立”を生んでいることには気づかない。だがそれでいい。

デローザおぢにとって、誰も持っていないことこそが最高のステータス。今日も彼らは人の少ないカフェでエスプレッソをすすりながら、「このフレーム、もう作ってないんだよ」と誰にも聞かれていない自慢をしている。

なぜデローザおぢはコルナゴでもピナレロでもビアンキでもなくチネリでもなく、デローザなのか?

デローザおぢが、数あるイタリアンブランドの中でデローザを選ぶ理由。それは“王道ではない王道”という絶妙な立ち位置にあるからだ。

コルナゴピナレロのようにレース実績を前面に出すでもなく、ビアンキのように街中にあふれているわけでもない。チネリのようにデザイン性で若者に寄っていくこともない。デローザは、あくまで静かに、古き良きイタリアの矜持を守り続けている。その“控えめな誇り”に共鳴するのがデローザおぢなのだ。

彼らにとってデローザは、名声よりも品格を重んじるブランド。派手さより“職人の手の跡”を愛し、最新トレンドより“昔ながらの魂”を信じる。だから、コルナゴ乗りを見れば「スポンサー色が強い」と言い、ピナレロを見れば「最近のはもうF1マシン」とつぶやく。ビアンキに対しては「チェレステカラーが多すぎて個性が薄い」と言い、チネリには「お洒落方向に逃げた」とため息をつく。

彼らの中では、デローザこそが“本物のイタリア”であり、職人気質と浪漫がまだ生きている最後の砦なのだ。つまり、デローザを選ぶというのはブランドの人気を追う行為ではなく、“格と美学の境界線を守る宣言”である。

おぢたちはその静かな伝統主義を、自らの人生観と重ねている。派手にドヤらず、静かに誇る──それがデローザおぢがデローザを選び続ける理由であり、彼らなりの“美意識の最終回答”なのだ。

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現実とのギャップ|理想はスパレコ、現実は機械式105クラス

デローザおぢの心の中には、常に「いつかスーパーレコードを…」という叶わぬ夢がある。フレームはイタリアン、心もイタリアン、だが財布だけは極めてジャパニーズ。

現実には、完成車に付いてきたシマノの機械式105をそのまま使い続けているケースがほとんどだ。コンポのアップグレード資金を貯めようと意気込むものの、気づけば何年もお金を貯められないほど所得が下がり続けているのがデローザおぢの日常である。

実際、変速が重くてもそれを「イタリアの手応え」と脳内変換できるのが彼らの強みだ。理想はスパレコ、現実は機械式105──このギャップこそがデローザおぢのリアルであり、もはやライフスタイルの一部になっている。

完璧なイタリアンロードではなく、“ちょっと残念な混血仕様”であることにすら、彼らは誇りを見出す。つまり、走行性能よりも「語れるストーリー」があれば満足。夢を諦めきれない中年の哀愁こそが、デローザおぢのエンジンを回しているのだ。

結論|デローザおぢは“語るため”に走るロードバイク浪漫主義者

デローザおぢのロードバイク人生をひとことで表すなら、「走るより語るため」。彼らにとってペダルを踏む行為は、速度を競うためではなく“情熱の証明”である。フレームは語り、ホイールは歌い、コンポは魂を刻む──そう信じて疑わないのがデローザおぢという生き物だ。

だから走行距離よりも洗車回数が多くても構わない。グループライドで千切れても、帰りのカフェでデローザ論を語り尽くせば勝ちなのだ。彼らの目には、性能差も流行も関係ない。あるのは「俺はまだイタリアの美学を信じている」という自己宣言だけである。

デローザというブランドは、彼らにとって単なるロードバイクではなく“自己表現の媒体”であり、“人生の編集装置”だ。カーボンやアルミではなく、誇りと浪漫でできている。だからこそ、どれほど時代が進化しても、デローザおぢは消えない。電子シフトが主流になっても、ディスクが標準になっても、彼らはリムブレーキの銀リムを磨きながら、「やっぱり情熱はアナログだよ」と呟く。

そう、デローザおぢとは“速さの外側に生きるロードバイク浪漫主義者”。彼らは今日も、語るために走り、語りながら老いていく。

まとめ|イタリア信仰で今日も空回る、ウザく愛すべきデローザおぢ

デローザおぢは今日も、情熱という名の空回りを楽しんでいる。理想はスーパーレコード、現実は機械式105。それでも彼らは胸を張り「俺のバイクにはイタリアの血が流れている」と言い切る。

カフェではエスプレッソ片手にBORAの回転性能を語り、ライドでは誰よりも遅いのに「デローザは速さじゃない」と開き直る。その姿はウザい。だが、同時にどこか愛おしい。なぜなら彼らの空回りには、“ロードバイクを心から楽しむ”という純粋さが残っているからだ。効率やパワーよりも浪漫を信じ、機材よりも物語を愛する。そんな時代錯誤な彼らこそ、今のロードバイク界に必要なスパイスなのかもしれない。

イタリア信仰で今日も走り続けるデローザおぢ。速さでは勝てなくても、語りの熱量では誰にも負けない。彼らの物語は、今日もサイクリングロードのどこかで、ゆっくりと情熱のギアを回している。

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