ロードレースは、長時間にわたり限界近い強度で走り続ける過酷な競技です。その走りを支えているのが、レース中に摂られる補給食です。選手たちは、補給の方法や内容がわずかに違うだけで、後半の脚に大きな差が生まれます。それほど補給は、勝敗や生き残りを左右する重要な要素です。
しかし現在のように、ジェルやバー、高濃度のスポーツドリンクが当たり前になったのは最近のことです。ロードレース初期の選手たちは、酒場で食事をとり、道中の噴水や店に頼りながら走っていました。時代が進むにつれ補給は整理され、やがてスポーツ科学の発展によって大きく進化していきます。
本記事では、その変化の流れを時代ごとに振り返りながら、補給食がどのようにロードレースを支え、競技そのものを進化させてきたのかを丁寧にたどっていきます。補給食の歴史を知れば、ロードレースという競技の奥深さと、選手のパフォーマンスの裏側にある工夫がより鮮明に見えてくるはずです。
なぜロードバイクでは補給食が必要なのか
ロードバイクという競技や趣味は、長時間にわたり高い運動強度を維持することが求められます。特にロードレースでは、四時間から六時間ものあいだ踏み続けることも珍しくありません。そのため、体内のエネルギー源だけでは到底走り切れず、レース中に外部からエネルギーを補給し続ける必要があります。
人間の身体が貯蔵できる糖質には限りがあり、一般的な成人でおおよそ二千キロカロリー前後が上限です。これは強度の高い走行であれば二時間程度で枯渇してしまう量に相当します。糖質が切れれば、脚は動かなくなり、いわゆるハンガーノックを引き起こします。プロ選手であっても、補給を誤れば一瞬で失速するほど、補給は走行性能に直結します。
また、ロードバイクでは気温や湿度、風向きなどの外的要因によって消耗の度合いが大きく変わります。暑さで水分と電解質が失われれば、筋肉の収縮が不安定になり、パフォーマンスが落ちるだけでなく危険にもつながります。そのため補給食は、単にエネルギーを入れるだけではなく、水分やミネラルを適切に補い、身体の状態を維持するための重要な手段でもあります。
さらに補給は、レース戦略の一部としても機能します。逃げを狙うのか、温存しながら集団で走るのか。どのタイミングでどの種類の補給を入れるかによって、後半のパフォーマンスが大きく変わるため、選手やチームは綿密な計画を立てています。現代のロードレースでは一時間あたりに摂取すべき糖質量が細かく設計されており、補給そのものがレースマネジメントと直結しています。
ロードバイクにおける補給食は、単なる食べ物ではありません。走り続けるための燃料であり、身体の維持装置であり、勝敗を左右する戦略要素でもあります。だからこそ、その歴史を紐解くと、ロードレースがどのように発展し、選手たちがどれほどの努力と工夫を積み重ねてきたのかが、より鮮明に見えてきます。
1900〜1920年|酒と肉の“好き勝手補給”時代
二十世紀初頭のロードレースでは、現在のようなサポート体制や補給ルールが存在せず、競技そのものが極めて原始的な姿で行われていました。当時のステージは一日の走行距離が三百キロを超えることも多く、未舗装路や夜間走行を含む過酷な長丁場が当たり前でした。そのため、選手はレースを完走するためのあらゆる判断を自ら下す必要があり、その一つが「どこで、何を、どのように補給するか」という問題でした。
この時代には、チームカーによる並走やサポートスタッフの帯同が制度として確立しておらず、レース運営側が補給体制を提供する仕組みも整っていませんでした。選手は機材の修理から水分・食料の調達まで、ほぼすべてを自分自身で行うことが求められていました。補給が個人任せにならざるを得なかった背景には、当時のレースの運営方式が深く関係しています。
さらに、道路インフラや交通事情が現在とはまったく異なり、補給を受けられるポイントも地域や時間帯によって大きく異なっていました。街を抜ける区間では店に立ち寄ることができても、郊外や山岳区間では補給の選択肢が限られ、選手は「その場で手に入るものを使う」柔軟さを求められました。この不均一な環境が、補給スタイルの多様化を後押ししています。
また当時のロードレースは、戦術的な集団走行よりも「個人の生存能力」が強く問われる競技性を持っており、体力の管理やエネルギー確保は選手それぞれの責任とされていました。チーム戦略という概念はまだ薄く、各自が自分の判断で補給を行うことが、競技の自然な構造として受け入れられていました。
こうした運営体制、交通環境、競技性の三つが重なり、補給は完全に選手任せとなり、結果として「好き勝手補給」と形容される時代が形成されました。補給の中身や理由よりも、その自由さを生み出したレース環境そのものが、この時代に特有の大きな特徴だったといえます。
自己補給が当たり前だった黎明期
ツール・ド・フランス創設期のロードレースでは、補給はすべて選手自身の責任で行うものでした。運営側が食料や水分を提供する仕組みは存在せず、選手は道中で店に立ち寄ったり、噴水や井戸の水を汲んだりしながら走り続けていました。補給そのものが「各自が走りながら生き抜くための行動」と位置づけられていた時代です。
初期の選手たちは、レースの途中でカフェや商店に入り、肉料理、菓子、甘い飲み物などを大量に摂取していました。初代ツール優勝者モーリス・ガランは、長時間レースの最中に噴水で水を飲み、店でさまざまな食品を買って補給していたことが当時の記事や回想に記録されています。また、一九〇四年優勝者アンリ・コルネが、一日のレースで大量の甘い飲料やライスプディングを摂取していたことも当時の資料に残されています。これらはいずれも、選手が自ら立ち寄って調達したものです。
当時のレースにはチェックポイントが設けられており、順位確認のため選手が立ち寄る必要がありましたが、そこで飲食をとることも認められていました。ホテルでの休息や補給所のような現代的なサポートは存在せず、チェックポイントや街中の店が実質的な補給拠点として機能していたことが分かっています。
このように、黎明期のロードレースは「補給は完全に選手任せ」であり、どこで何を摂るかは走りながら判断するのが当たり前でした。補給方法を含め、レースを完走するための判断と行動がすべて個人に委ねられていたことが、この時代の大きな特徴といえます。
水より酒のほうが安全と考えられていた背景
二十世紀初頭のロードレースでアルコール飲料が多く用いられていた理由のひとつは、当時の「水の衛生環境」にあります。近代的な浄水設備が地方まで十分に普及しておらず、レース中に選手が立ち寄ることになる井戸や湧き水は、細菌汚染の可能性が指摘されていました。飲料水の衛生に関する基準も現在のように整備されていなかったため、走行中に偶然見つけた水源をそのまま飲むことにはリスクが伴っていました。
一方、ビールやワインなどの醸造酒は、製造過程で加熱や発酵を経るため、当時の人々の間では「素性の分からない水よりも安全」と広く認識されていました。醸造によって雑菌がある程度抑えられることが知られていたため、品質が不安定な井戸水よりも、醸造所から供給された酒類のほうが衛生面で信頼できると考えられていたのです。
また、当時の一般的な見解として、ビールは水分に加えて糖質やわずかなミネラルを含む飲料として評価されていました。そのため、長時間の走行で大量の水分とエネルギーを必要とするロードレースにおいて、補給手段として選ばれることは自然な判断でした。実際、初期のツール・ド・フランスでは、選手がレース中にビールやワインを飲用していた事例が複数の記録に残されています。
現在の運動生理学では、アルコールが持久運動のパフォーマンスに不利に働くことが明確になっていますが、当時はそのような知見はまだ確立していませんでした。そのため、「水は危ないが、醸造酒は比較的安全」という時代背景が、ロードレースの補給としてアルコールが選ばれていた大きな要因になっていました。
1920年代|ミュゼット(サコッシュ)誕生と“走りながら補給”の始まり
1920年代のロードレースは、補給方法が大きく変わり始めた時期として位置づけられます。黎明期の選手任せの補給から、レース運営がある程度補給行動を許可・整理し、選手がレース中に途切れなく走り続けられるように仕組みが整えられていった年代です。
ツール・ド・フランスでは、1920年代に入ってステージ構成や運営方式の見直しが進み、選手が長時間、自力で補給ポイントを探し歩くような状況を減らすための制度が徐々に整備されました。補給が選手の生命線であることが明確になったことで、レース側も「補給をどう扱うか」を競技運営の課題として捉え始めた時期でもあります。
レースのスピードが上がり、選手同士の駆け引きが複雑化したことも、この変革を後押ししました。補給のために長く停止すれば、その瞬間に順位や位置取りで不利になるため、選手が「走り続けながら補給する必要性」が高まり、これを可能にするための運営側の環境整備が求められました。
1920年代は、こうした競技の高速化と運営の制度化が同時に進んだことで、「補給の扱い」を明確にする方向に舵が切られた年代です。補給を選手個々の自由に任せていた時代から、レースの流れを止めずに摂れるような仕組みへと段階的に移行し始めたことで、後に定着する“走りながら補給する”文化の基盤がこの時期に形づくられました。
すなわち1920年代は、補給の中身そのものではなく、補給という行為の「位置づけ」や「扱われ方」が変わった転換点であり、ロードレースが初めて補給を競技の一要素として明確に組み込んだ時代といえます。
補給スタイルが大転換した年代
1920年代は、ロードレースにおける補給方法が大きく改まった年代として記録されています。これ以前のレースでは、補給は選手が自ら店を探し、道中で立ち寄って食料を調達するという完全な自己管理方式でした。しかし、この方式では時間のロスが大きく、レースとしての公平性や競技性にも影響が出ていました。
そこで1920年代になると、運営側が補給行動を一定の形で整理し、選手が走行を維持しながら補給を受けられる環境を整え始めます。具体的には、補給物を受け渡すための決められた地点が設けられ、レース中に停止する必要を最小限に抑える方向へ制度が進められました。こうした変化は、当時のツール・ド・フランスをはじめとする長距離レースで確認されています。
また、選手が補給物を受け取りやすくするための携行手段が普及し始めたのもこの時期です。これにより、補給を受ける行為そのものがレースの流れを妨げにくくなり、選手は走行ペースを維持しながら次のエネルギーを確保できるようになりました。これまでのように店を探し回る必要がなくなったことで、補給はより「レースの一部」として扱われるようになります。
このように、1920年代はロードレースの補給文化が大きく変わった時期であり、従来の長時間停止して補給する方式から、レースを途切れさせないための補給方法へと転換した重要な年代でした。競技の高速化と運営体制の整備が重なったことで、補給のあり方が初めて近代的な方向へと動き出した時代といえます。
ミュゼット(サコッシュ)の中身はケーキとサンドイッチ
ミュゼット(サコッシュ)がロードレースで使われ始めた時期の資料には、当時の補給袋の中身として、ケーキやサンドイッチが頻繁に登場します。ミュゼットは軽量で肩から掛けられる布製の袋で、選手が手早く補給物を受け取り、走りながら取り出せるように設計されていました。その中身については複数の選手の証言やレース記録により、比較的一貫した特徴が確認できます。
初期のミュゼットでは、素早く食べられて消化の良い固形物が選ばれていました。特にケーキやタルトのような甘い焼き菓子は、ロードレース黎明期から選手が補給として常用していた食品であり、ミュゼットが導入された後も継続して入れられています。また、ハムやチーズを挟んだサンドイッチやバゲットも定番で、長時間のレースに必要なエネルギー源として選手が受け取っていたことが記録に残っています。
さらに、果物もよく補給物として入れられていました。特に当時の選手は果物を手軽なエネルギー源として扱っており、ミュゼットが普及したのちもリンゴなどが入っていた例が確認されています。ミュゼットは簡易的な袋であるため、扱いやすく、走行中に片手で取り出せる食品が選ばれていたことがうかがえます。
このように、普及初期のミュゼットは、ケーキ、サンドイッチ、果物といった「当時の選手が実際にレース中に食べていたもの」をそのまま詰め込むための袋として運用されていました。現在のような専用スポーツフードはまだ存在しておらず、一般的な食べ物がそのまま補給物として使われていたことが、当時の資料から明確に確認できます。
1930〜1960年代前半|肉とケーキの時代、そして栄養概念の萌芽
1930年代から1960年代にかけてのロードレースは、補給スタイルと食事観が大きく変化した時期として知られています。特にこの時代は、レース全体を支える体制が整い始め、補給や食事が「選手個人の判断」から「チームと運営の管理下」に少しずつ移行していった年代です。
ツール・ド・フランスでは1930年代に大きな制度変更が行われ、レースの運営方式が見直されました。これにより、選手がレース期間中にどのように食事をとり、どのように体力を維持するのかが、競技運営にとって以前より重要なテーマとして扱われるようになります。料理や食事の準備に関して、従来のように選手が完全に現地任せで行うのではなく、組織的な枠組みの中で対応する基盤が整っていきました。
また、この時代は「食べ物でパフォーマンスを維持する」という考え方が明確に表れ始めた時期でもあります。選手が何をどれだけ食べるべきかという視点が、単なる経験則ではなく、ある程度の理屈や理由を伴って語られるようになりました。栄養学そのものはまだ現在ほど発展していませんでしたが、競技者の身体づくりや長距離走行に必要なエネルギー源について、意識的に語られる場面が増えていきます。
さらに、レースの高速化や戦術の複雑化により、長時間を走り抜くための食事の重要性が高まりました。補給を含むレース中のエネルギー管理が、単なる習慣ではなく「競技力に直接影響する要素」として認識され始めたのもこの時代です。
結果として1930〜1960年代は、従来から続く「肉や甘い食品を中心とした大量摂取」の習慣を残しながらも、補給や食事がより体系的に扱われ、のちに科学的アプローチへとつながる“芽”が生まれた過渡期となりました。ロードレースにおける補給文化が、伝統的な食習慣と新しい栄養観の両方を抱えながら前進していった時代といえます。
ナショナルチーム制で組織化された食事
ツール・ド・フランスでは、1930年に大きな制度変更が行われ、従来の商業スポンサーによるチーム編成から、国別のナショナルチーム制へ移行しました。この変更は、レースの運営体制だけでなく、選手がレース中にどのような食事をとるかという点にも直接影響を与えました。
ナショナルチーム制の導入により、選手はレース期間中、チーム単位で宿泊し、同じ場所で食事をとることが基本となりました。これにより、選手がその日の宿泊地で自由に食べ物を探す必要がなくなり、レース主催者が用意したホテルで、決められたメニューをチームごとに受け取る形へ統一されました。つまり、食事が個人任せの時代から、チーム全体で共通の食事を取る形に変わったのです。
当時の資料によると、ナショナルチーム制後の選手たちは、主催者が用意した食事をホテルで摂ることが一般的となり、朝食・夕食の内容は各国チームに均等に提供されました。これによって、食事の量や内容に大きなバラつきが出にくくなり、選手全体が同じ条件でレースに臨む体制が整えられました。
また、ナショナルチーム制の導入によって、食事の準備や提供が組織的に行われるようになり、従来のように選手が旅先の店に頼る必要が減りました。食事がレース運営の一部として扱われるようになったことは、補給や栄養管理が「チーム単位の仕事」として意識されるようになる重要な転換点となりました。
このように、ナショナルチーム制の導入は、ロードレースにおける食事の扱われ方を大きく変え、選手の食事が初めて組織的・体系的に整えられた時代をつくり出しました。これが、後に発展していくチームによる栄養管理や食事計画の基盤となっています。
ケーキとタルトは相変わらず主役
1930〜1960年代のロードレースでは、ナショナルチーム制の導入によって宿泊地での食事が統一されるようになった一方、レース中の補給そのものは依然として「従来からの定番食品」が中心に使われていました。その代表がケーキやタルトといった甘い焼き菓子です。
当時のツール・ド・フランスを扱った記録や選手の証言には、レース中に摂られていた補給として「ケーキ」「タルト」「甘いパン」「砂糖を多く使った焼き菓子」が頻繁に登場します。これらは手で掴んですぐに食べられ、長時間のレースでも持ち運びがしやすいため、黎明期から続く定番の補給源として使われ続けていました。
また、レース中に用意されていた補給袋や補給ポイントには、甘味の強い焼き菓子と並んで、果物やジャムを挟んだパンなどもよく置かれていたことが当時の資料から確認できます。栄養学がまだ発展途上であったこの時代、即効性のある糖質を摂れる食品として、ケーキやタルトは最も扱いやすく信頼されていた補給食のひとつでした。
選手の中には、レース前日にパン屋で好みの焼き菓子を購入して持ち込む者もおり、レース運営側が提供する食事とは別に、個人ごとの補給物としてケーキ類を準備していたケースも記録に残っています。ナショナルチーム制によって宿泊時の食事は統一されていきましたが、レース中にどのような甘味を選ぶかは選手の習慣や好みに委ねられていました。
このように、1930〜1960年代のロードレースにおいて、ケーキやタルトは依然として補給の中心を担う存在であり、黎明期から続く「甘い焼き菓子が長距離レースを支える」という文化が、この時代にも強く残っていたことがわかります。
ビタミン・栄養という概念が登場
1930〜1960年代のロードレースでは、補給の中心は依然として肉料理や甘い焼き菓子でしたが、この時代には新たに「栄養」という考え方が選手の間に浸透し始めたことが記録されています。特にビタミン類の重要性に関心が向けられ始めたことは、この年代の大きな特徴です。
1930年代後半には、長時間にわたる耐久競技においてビタミン不足が疲労に関係する可能性が指摘され、いくつかの国でスポーツ選手向けのビタミン補給の必要性が語られるようになりました。実際、当時のロードレース関係者の証言や取材記事には、選手が体調維持のためにビタミン剤を持参していた例が確認されています。栄養についての科学的研究はまだ限られていたものの、食事がパフォーマンスに影響するという認識が、この時代に初めて明確に現れたといえます。
1950年代に入ると、選手自身が食事内容を意識的に整えようとする場面も見られるようになりました。一部の選手は、果物や野菜からビタミンを摂ることを重視し、レース前後に特定の食品を選んで食べていたことが記録に残っています。栄養学そのものが発展途中であったため、現在のように細かな栄養計算が行われていたわけではありませんが、「体調管理にはビタミンが必要である」という理解が選手たちのあいだに広がっていたことは文献から確認できます。
また、レース運営側も選手の健康管理を意識し、提供する食事に一定のバランスを持たせようと試みた例が報告されています。肉やパスタといった従来からの主食に加えて、果物が食卓に並ぶことが増えたのもこの時期で、栄養面への配慮が徐々に制度的にも反映され始めました。
こうした動きにより、1930〜1960年代は、ロードレースにおいて初めて「栄養」という概念が具体的な形で取り入れられた時代となりました。補給内容そのものは伝統的な食品が中心でありながらも、選手が自らの健康維持やパフォーマンス向上のために食事を意識し始めたという点で、次の時代の科学的アプローチにつながる重要な土台が作られた時期でした。
1965〜1980年代前半|スポーツドリンクと炭水化物ローディングの時代
1965〜1980年代前半は、ロードレースの補給文化が大きく変化した時代として位置づけられます。それまでのロードレースは、肉料理や甘い焼き菓子など、従来からの定番食に頼る補給が主流でした。しかし、この時代に入ると、耐久競技における水分補給や糖質摂取の重要性が明確に語られるようになり、補給方法の考え方そのものが変わり始めます。
この時期は、単に「何を食べるか」ではなく、「どのように体の状態を維持するか」という視点が強く意識されるようになった年代でもあります。特に、長時間走行による脱水やエネルギー枯渇がパフォーマンスに大きな影響を及ぼすことが、国内外の耐久スポーツの分野で次々と報告され、ロードレースでもその重要性が広く認識されていきました。
それに伴い、従来の水や甘い飲料、焼き菓子だけでは体力維持に限界があるという考え方が浸透し、補給がより「計画的に行うもの」として扱われ始めます。特に、走行中の水分と糖質の組み合わせがパフォーマンス維持に欠かせないという理解が深まり、補給は経験則に頼るだけのものではなく、一定の理屈に基づいて整理されるようになりました。
また、この時代は、レース前後の食事に対する意識も変化した年代でした。単なる大食に頼るのではなく、レースの前にどのようにエネルギーを蓄え、レース中にどう維持するかという考え方が浸透し始め、選手やチームが食事の摂り方を工夫する姿勢が見られるようになります。従来型の食事が続く一方で、レースへの備えとしての食事の捉え方が明確になっていったのです。
総じて1965〜1980年代前半は、「補給の科学化」が始まった初期段階といえる時代であり、補給を体系的に考えるための基礎が整えられた年代でした。従来の習慣を残しながらも、次の時代につながる新しい補給観が生まれた、非常に重要な過渡期となりました。
Gatorade(ゲータレード)登場による“補給の科学化”
1965年、アメリカ・フロリダ大学の研究チームがアメリカンフットボール選手の脱水問題を解決するために開発した飲料が、後に「Gatorade」として知られるようになります。水分、電解質、糖質を同時に補給するという設計思想は、それまでの一般飲料とは明確に異なるもので、これがスポーツ飲料というカテゴリーの出発点となりました。
Gatorade が誕生した後、アメリカ国内を中心に他の競技にも徐々に広まり、耐久スポーツにおいて水分と電解質、エネルギー補給を同時に行うという発想が浸透していきます。ロードレースの分野でも、この飲料が紹介されることで、走行中の水分補給を「体温調節のための行為」という枠を超えて、「パフォーマンス維持のための要素」として捉える意識が強まりました。
それまでロードレースでは、水か甘い飲料を摂ることが一般的でしたが、Gatorade の登場により、脱水と電解質の欠乏が選手のパフォーマンスに影響するという考え方が広く共有されるようになります。特に長時間のレースでは、体内の電解質が失われることで痙攣や失速が起こりやすいことが知られており、電解質を含む飲料が有効であるという認識は、各国のロードレース関係者にとって大きな転換点となりました。
Gatorade の登場は、ロードレースにおける補給を「経験則」から「科学的に裏付けられた行為」へと近づけるきっかけとなりました。それ以降の時代には、電解質バランスや糖質濃度を考慮したさまざまなスポーツドリンクが生まれ、補給が体系的に考えられる基礎が形成されていきます。
このように、Gatorade は単なる新しい飲料ではなく、ロードレースを含む耐久競技全体に「補給を科学的に捉える」という視点をもたらした重要な存在でした。
炭水化物ローディングの確立
炭水化物ローディングがスポーツ界で明確な方法として確立したのは、1960年代後半に発表された北欧の研究成果が大きな契機でした。特に、スウェーデンの研究者たちが行った一連の研究では、筋肉内のグリコーゲン量が持久運動のパフォーマンスに大きな影響を与えることが示されました。研究チームには、ベリグストローム、フルトマン、サルティンらが名を連ね、この分野の基礎を築いたことで知られています。
彼らは、運動前の食事内容と筋グリコーゲン量の変化を詳細に調べ、糖質を十分に摂取したときに筋グリコーゲンが高く保たれ、長時間の運動を持続できることを明確に示しました。さらに、糖質摂取量によってグリコーゲンの蓄えに大きな差が生まれることも確認され、持久競技者にとって糖質が決定的に重要であるという認識が広がっていきました。
この研究成果が発表されると、耐久スポーツ全体で「レース前に意図的に糖質を多く摂り、筋グリコーゲン量を最大化する」という手法が取り入れられるようになります。これが後に「炭水化物ローディング」と呼ばれる方法の基礎であり、実際の運動パフォーマンスを向上させる手段として広く採用されていきました。
ロードレース界でもこの知見を受け、レース前日にパスタや米などの高糖質食を集中的に摂る習慣が定着し、チームによる食事管理にも組み込まれるようになります。従来の「とにかく量を食べる」という発想とは異なり、エネルギー源を科学的に意図して蓄えるという明確な目的が持たれるようになった点が、この時代の大きな進歩でした。
こうして炭水化物ローディングは、1960年代後半の科学的研究を土台として確立され、ロードレースをはじめとする持久競技において欠かせない準備方法として広く定着していきました。
1980〜1990年代|エナジーバー&ジェルの誕生
1980〜1990年代は、ロードレースの補給文化が大きく転換した時代として位置づけられます。従来は焼き菓子やパン、サンドイッチなど一般的な食品を中心に補給していたロードレースの現場に、スポーツ用に特化した「専用補給食」が本格的に登場し始めたのがこの年代です。
この時期、持久競技全体で「走行中に素早く糖質を摂ること」が極めて重要であるという理解が広まり、補給はそれまでの経験則中心のものから、より効率性や吸収速度を重視した方向へ移行していきました。これにより、レース中に扱いやすく、短時間で摂取できる食品の需要が急速に高まります。
また、ロードレースはレーススピードが上昇し、戦術が複雑化した時期でもありました。補給のために長時間減速したり、手間のかかる食品を扱うことが明確な不利となったため、選手が走りを止めずにエネルギーを摂れる手段が求められました。こうした競技環境の変化も、専用補給食の普及を後押ししています。
さらに、世界的なスポーツ科学の進展により、摂取すべき糖質量や補給のタイミングについて研究が進み、補給は「レース戦略の一部」として明確に扱われるようになりました。従来は食べ物の選択がほぼ選手の個人管理によって行われていましたが、この時代にはチーム単位で補給計画が立てられるようになり、レース中のエネルギー摂取が組織的に管理され始めます。
このような背景の中で、エナジーバーやエナジージェルといった専用補給製品が登場し、ロードレースの補給文化は大きく姿を変えました。1980〜1990年代は、補給が単なる「食事」から、明確に「パフォーマンスを支えるための技術」へと位置づけられた重要な転換期といえます。
エナジーバー(携帯型固形補給食)の普及
1980年代後半から1990年代にかけて、ロードレースを含む耐久スポーツ界で「エナジーバー」と呼ばれる携帯型の固形補給食が普及し始めました。一般に広く知られるようになったきっかけのひとつが、1986年にカナダ出身の元陸上選手であるブライアン・マクスウェルらが開発した PowerBar の登場です。従来のパンや焼き菓子と異なり、運動中に必要な糖質と栄養を計算して設計された食品として販売され、耐久競技向けに特化した初期の市販補給食として位置づけられています。
PowerBar は軽量で持ち運びが容易なうえ、溶けにくく、包装を開ければすぐに食べられる利点があり、長時間の運動中でも安定してエネルギーを補給できることから、多くのアスリートに受け入れられました。特にロードレースでは、走行中に片手で扱える利便性が高く評価され、従来のケーキやパンに代わる補給手段として徐々に広まっていきました。
1990年代に入ると、耐久競技者向けのエナジーバー市場は拡大し、さまざまなメーカーが新製品を投入するようになります。1992年にはアメリカで Clif Bar が登場し、天然素材を用いたエナジーバーとして注目されました。このように、複数のブランドが市場に参入したことで、エナジーバーは単なる代替食品ではなく、補給計画に組み込まれる「専用補給食」として確立されていきます。
ロードレースにおいても、当時の選手やチームスタッフの証言により、1990年代初頭にはエナジーバーがミュゼットの定番補給物のひとつとして扱われていたことが確認されています。レーススピードの上昇や戦術の複雑化により、迅速に摂取できる食品の需要が高まったことも、普及を後押ししました。
このように、エナジーバーは1980年代後半から1990年代にかけて、耐久スポーツ全体の補給文化を大きく変える存在となり、ロードレースにおいても専用補給食の普及を象徴する重要な要素となりました。
スポーツジェルの誕生
スポーツジェルは、1980年代半ばから後半にかけて耐久スポーツ向け補給の新たなカテゴリーとして登場しました。英国で1986年ごろに「ポータブルで事前包装された炭水化物補給用ジェル」が出始めたという記録があり、そこがジェル形状補給食の原点とされています。
さらに、南アフリカのスポーツ科学者ティモシー・ノークスらによる1987年開発のジェルが、約25グラムで一時間程度の運動に必要なエネルギーを補える仕様であったことが、当時のブランド記録として残っています。
これら初期のスポーツジェルは、携行性・消化のしやすさ・即効性を重視して設計され、走行中の補給という点で固形バーに比べて扱いやすい特徴を持っていました。ジェル形状にすることで走行中に噛む必要がなく、時間的・動作的なコストを抑えられたことが普及のポイントとなりました。
1990年代に入ると、米国の GU Energy Labs が1994年設立され、同社がジェル市場を牽引する主要な供給者となりました。組織スポーツの補給計画において、ジェルは「補給袋の定番」として扱われるようになり、従来の焼き菓子やパンに代わる実用的な補給手段として定着していきました。
このように、スポーツジェルは1980年代末から1990年代初頭にかけて、耐久競技者の補給方法を大きく変えた技術革新であり、ロードレースにおいてもその影響が無視できないものとなりました。
1990〜2000年代|チームシェフとライスケーキの登場
1990〜2000年代は、ロードレースにおける補給と食事管理が本格的に「チームの専門領域」として扱われるようになった時期です。1980〜90年代にスポーツ用補給食が普及した流れを受け、この年代では補給そのものを選手個人の経験則に任せるのではなく、チーム側が計画的に管理する体制が整い始めました。
その象徴が、チーム専属のシェフを帯同させる動きです。これにより、選手はレース前後に安定した品質の食事を摂れるようになり、宿泊先の環境に左右されずに、必要な栄養を確保できる体制が整いました。料理の内容や提供タイミングをチームが一括して管理することで、食事がパフォーマンス計画の一部として位置づけられた点が、この時代の大きな特徴です。
またレース中の補給も、従来の「とりあえず手に入る食品を食べる」という形から、「チームが準備した食品を決められたタイミングで摂る」スタイルへと移行しました。補給物の質や量をチームがコントロールすることで、選手はレースのどの局面でも安定したエネルギー補給を行えるようになり、補給ミスによるパフォーマンス低下を防ぐ仕組みが構築されました。
この時期には、加工食品に頼りすぎず、胃腸にやさしくエネルギー効率の良い“リアルフード”が見直され始め、レース中でも扱いやすい形に加工した食品が採用されるようになります。その結果、食材の選び方や調理方法がチームの特性や選手の好みと結びつき、補給がより個別化・高度化していきました。
1990〜2000年代は、ロードレースにおける補給と食事管理が「個々の選手の工夫」から「チーム全体の戦略」へと変わった時代でした。食事・補給・栄養管理が一体となり、レースパフォーマンスを支えるシステムとして運用され始めた、この転換点こそが後の“現代的な補給戦略”の基盤となっています。
食事と補給を統合した体制の確立
1990〜2000年代のロードレースでは、チームが選手の食事と補給を一体のものとして管理する体制が本格的に整い始めました。それ以前の時代では、宿泊先のホテルでの食事は主催者側が用意する標準的なメニューで、レース中の補給は選手個人の判断に依存する部分が大きく、食事と補給は別々に扱われていました。しかしこの年代に入り、チームが両者を「連続した栄養戦略」として結びつける流れが明確に確認されます。
最初の大きな変化は、チーム専属のシェフが帯同するようになったことです。これにより、選手はレース前からレース後まで、必要な栄養を計画的に摂取できるようになりました。チームは選手の消耗量や翌日のステージ内容に応じて食事内容を調整し、前日の夕食・レース当日の朝食・レース後のリカバリーミールまで一貫して管理することが可能になりました。
同時に、レース中の補給もチームが組織的に設計するようになります。補給車がどの地点で何を渡すか、選手がどのタイミングで摂取するかといった計画を、レース前に詳細に組み立てることが一般化しました。これにより、レース前後の食事とレース中の補給の内容や量が連動するようになり、選手の消費エネルギーに合わせて栄養を途切れなく供給する体制が確立していきます。
また、この時代には、選手の身体状態を踏まえた個別対応も増えました。特定の食材に対する反応、胃腸の強さ、ステージごとの役割といった情報を踏まえて、チームが選手ごとに食事量や補給の組み合わせを調整することが行われるようになりました。これにより、食事と補給は単なる「食べ物の提供」ではなく、パフォーマンス向上のための総合的な栄養管理として扱われるようになります。
1990〜2000年代は、食事と補給が分断された時代から、両者が統合されて戦略的に扱われる時代へと移行した重要な転換点でした。この体制の確立により、ロードレースの栄養管理は現代的な水準へと大きく前進しました。
ライスケーキという“リアルフード”の再評価
1990〜2000年代のロードレースでは、補給が高度化する一方で、従来型の加工食品だけに頼らない“リアルフード”が再び注目されるようになりました。その代表例として広く知られるようになったのが、チームスタッフが手作りするライスケーキです。これは米をベースに、砂糖やドライフルーツ、時には塩味要素を加えて成形したもので、長時間のレースでも食べやすい補給食として定着しました。
ライスケーキが再評価されるようになった理由のひとつは、エナジーバーやジェルだけでは胃腸への負担が大きくなるケースがあったためです。長時間のレースでは、摂取するエネルギー量が非常に多くなるため、加工食品だけで補給を続けると消化にストレスがかかることが選手から指摘されていました。そのため、より自然な形でエネルギーを摂れる“リアルフード”が補給計画の一部として取り入れられるようになりました。
またライスケーキは、炭水化物を中心としながら水分量も適度に含んでいるため、口の中が乾燥しやすいレース終盤でも食べやすい点が評価されました。甘味や塩味の調整が容易で、選手の嗜好やコンディションに合わせてチームがカスタマイズできることも利点でした。実際、選手の好みに合わせて食材を変えたり、消化のしやすさを考慮して硬さを調整するなど、チームシェフの工夫が加えられた例が多く記録されています。
さらに、当時のロードレース界では、レース中の補給をチームが計画的に管理する流れが進んでいたため、チームスタッフが事前に大量のライスケーキを準備し、決められたタイミングで選手に渡すという体制が整っていきました。これにより、ライスケーキは単なる伝統的食品ではなく、現代的な補給戦略の中で再評価された実用的なエネルギー源として位置づけられるようになります。
このようにライスケーキは、1990〜2000年代のロードレースにおいて、加工食品の時代にあっても「自然な食べ物」が持つ利点が見直され、効率的かつ負担の少ない補給食として定着していきました。補給が科学的に体系化される流れの中で、リアルフードが再び価値を取り戻した象徴的な存在と言えます。
2010年代〜現在|高糖質戦略と完全パーソナライズ時代
2010年代以降のロードレースでは、補給と栄養管理がかつてないほど精密な領域にまで発展し、選手ごとの身体特性や役割に合わせて補給内容が設計される時代に入りました。従来はチーム全体で共通の補給方針を取ることが一般的でしたが、この年代になると、選手一人ひとりの消耗量・吸収能力・レースでの役割を前提にした「個別最適化」が補給計画の中心となります。
この変化を支えた要因として、体内のエネルギー消費量を精密に測定できるデバイスや、運動時の糖質吸収に関する研究の深化が挙げられます。どの選手がどれだけのエネルギーを必要とするかを具体的に把握できるようになったことで、補給計画は経験則から数値に基づく戦略へと移行しました。レース前・レース中・レース後の食事と補給は、もはや個別の要素ではなく、綿密に連動した一つのプランとして組み立てられています。
また、レースの高速化が進んだことも、補給戦略の高度化をさらに後押ししました。レース速度が上がり、展開がより細かく変化するようになったことで、補給のタイミングや摂取量を間違えるとすぐに遅れにつながるようになりました。これにより、補給は選手の自主性に任せるのではなく、チーム主導で管理し、必要な糖質量を確実に満たすことが求められるようになっています。
さらに、近年のチームは栄養士やスポーツ科学スタッフを常時帯同しており、補給戦略は医学・栄養学・運動科学の知見を組み合わせた総合的な分野へと進化しました。選手の胃腸の状態、前日の負荷、天候、ステージの難易度などを総合的に判断し、摂取すべき栄養の量と種類が細かく調整されます。
2010年代から現在にかけてのロードレースは、補給が単なる「エネルギー補給」ではなく、チームの科学的マネジメントの中心に位置付けられた時代です。補給内容の個別最適化、数値に基づく管理、そして科学スタッフを含む大規模なサポート体制により、ロードレースの補給文化はかつてないレベルまで進化しました。これが現代の「高糖質戦略」と「パーソナライズ補給」の基盤となっています。
一時間あたり九十〜百グラム超の糖質摂取へ
近年の持久競技、特に長時間にわたるロードレースやトレイルなどでは、レース中に選手が摂取する糖質量のガイドラインが従来の「30〜60グラム/時間」から「60〜90グラム/時間」、さらには「90グラムを超える」水準へと引き上げられてきています。これは、筋肉や肝臓に貯蔵されたグリコーゲン(糖質貯蔵分)の消耗速度が非常に速く、従来の補給量ではエネルギー供給が追いつかないという研究結果が積み重なったためです。
たとえば、複数のレビュー論文では、持続時間が150分を超える運動に対しては、カーボハイドレート(糖質)補給を1時間あたり60〜90グラムとすることが一般的推奨であると記されています。さらに、最近の研究では90グラムを超える摂取(例:100グラム前後またはそれ以上)を行ったグループが、より高い外因性糖質酸化率(体外から摂取した糖質のエネルギーとしての利用率)が得られ、疲労蓄積が抑えられたという結果も報告されています。
このように、「1時間あたり90グラムを超える糖質摂取」が有効とされる背景には、以下の要素があります。
- 長時間レース中は体内グリコーゲンが急速に減少するため、外部から高量の糖質を継続的に供給することがパフォーマンス維持に直結する。
- 糖質の吸収と利用には限界があるため、60グラム/時間程度の従来水準では、激しい競技負荷ではエネルギー供給が追いつかない可能性がある。
- 複数糖質(例:グルコース+フルクトース)の併用によって、腸からの吸収経路を分散させることで高い糖質摂取量を可能にした研究結果が存在する。
ただし、この種の高糖質摂取を実際のレースで用いる際には、選手の胃腸の耐性、食品・ドリンクの形態、レース中の条件(気温・ステージプロフィール・個人の体格・消耗状況)といった変数を事前に確認し、トレーニング時から試験を行うことが実践ガイドラインには繰り返し記されています。
このように、「1時間あたり90〜100グラム超の糖質摂取」は、ロードレースを含む長時間持久競技において最新の栄養戦略として確立しつつある水準であり、補給を単なるエネルギー補給から戦略的なパフォーマンス維持の手段へと進化させる要素のひとつとなっています。
現代のミュゼット(サコッシュ)の中身
現代のロードレースで使われるミュゼットには、レース中に必要なエネルギーと水分を迅速に補給するための食品が計画的に詰められています。中身はチームによって異なるものの、各チームが公表している映像や大会運営の公開資料、選手自身の発信などから、現在のミュゼットの構成はおおむね共通した特徴を持っていることが確認できます。
まず中心となるのは、エナジージェルとエナジーバーです。ジェルは即効性のある糖質源として、現代の補給計画の核になっており、ミュゼットには複数個が入れられるのが一般的です。バーはレースの中盤から終盤にかけて、選手が固形物を必要とする場面に備えて支給され、消化しやすいタイプが選ばれています。
次に、チームが用意する“リアルフード”が入れられるケースも多く見られます。代表的なのがライスケーキで、甘味タイプと塩味タイプのどちらも使われています。これらはチームシェフが選手ごとに好みや胃腸の強さを踏まえて準備するもので、加工食品との組み合わせによって補給の負担を軽減する意図があります。
飲料に関しては、濃度を調整したスポーツドリンクのボトルがミュゼットに入る場合があります。ドリンクはボトル手渡しで補給されることも多く、チームによっては糖質濃度や電解質量をステージごとに調整しています。ボトルはミュゼットとは別で補給されることもあるため、入れるかどうかはチーム運用により異なります。
果物や小型の菓子類が入る例も確認されています。特にバナナやドライフルーツ、グミのような一口で食べられる食品は、レース展開が落ち着いた局面で摂取されることが多いことが選手の証言から知られています。
ミュゼットは選手が受け取った瞬間にすばやく中身を取り出せるよう、余計な物は入れられません。現代のミュゼットは、ジェル・バー・ライスケーキ・果物・補給ドリンクといった、機能性と扱いやすさを両立したアイテムで構成されており、現代ロードレースの高いスピードと複雑な戦術を支える重要な補給手段として運用されています。
補給食の歴史が教えてくれること
ロードレースにおける補給食の歴史を振り返ると、競技の発展とともに補給の位置づけが大きく変化してきたことが明確にわかります。最初期は選手が生き延びるために自分で調達する“自助の行為”でしたが、時代が進むにつれ補給は競技力そのものを左右する“戦略”へと変わっていきました。この変化は、ロードレースという競技がより高速化し、科学的アプローチが浸透し、チーム運営が組織化されていった流れと密接に結びついています。
補給の歴史が示しているのは、選手のパフォーマンスを支える要素が、単なる努力や体力だけでは成立しないという事実です。初期の選手は補給場所を探しながら走らざるを得ず、補給そのものがレース展開に直接影響していました。しかし、補給の方法が体系化されると、選手はレースに集中でき、競技そのものの質も向上していきました。補給の整備は、レースの公平性と競技性を支える重要な土台となったのです。
さらに、補給食の進化はロードレースの戦術の変化とも連動しています。補給が整うほど長距離の高速走行が可能になり、チームの組織力や役割分担がより重要になりました。特に現代に至るまでの流れを見ると、補給は「ただ食べる行為」ではなく、選手の体調、レースの展開、環境条件を総合的に判断して組み立てる科学的プロセスとなっています。
補給食の歴史は、ロードレースが単なる持久力競技ではなく、高度な戦略性と科学的管理が必要なスポーツであるという事実を鮮明に映し出しています。初期の混沌とした補給から、現代の精密な補給計画に至るまでの変遷をたどることで、ロードレースという競技がどれほど多面的な努力によって支えられてきたのかが理解できるのです。
まとめ|補給食はロードレースの裏主役である
ロードレースの補給食の歴史をたどると、競技の進化そのものが補給の変化とともに歩んできたことがはっきりと浮かび上がります。黎明期は生き抜くための手段であり、やがてはレース運営によって整えられる仕組みとなり、さらに科学の進歩とともに高度な戦略要素へと発展していきました。どの時代を見ても、補給は単に腹を満たす行為ではなく、選手がレースを走り続けるための基盤であり続けています。
長時間にわたる高強度の運動を続けるロードレースでは、体内のエネルギーだけでは到底足りず、適切な補給がなければどれほど優れた選手であっても力を発揮することはできません。補給が整うことで、選手はレースに集中でき、チームは戦術を成立させることができます。補給は、競技そのものの成立と質の向上を影で支える不可欠な存在といえます。
現代では補給の計画性が極めて重要となり、選手ごとの特性やレース展開に合わせて綿密に設計されるようになりました。しかし、その本質は初期の時代から変わっていません。どれほど技術が進歩しても、ロードレースが「人間の身体が限界まで挑む競技」である以上、走り続けるためのエネルギーをどう確保するかという根本課題は同じだからです。
こうして振り返ると、補給食はロードレースの表舞台には立たないものの、競技を陰で支え続ける“裏主役”と言えます。選手の走り、チームの戦略、レースの成り立ち──そのすべてを支える基盤に補給があることを理解することで、ロードレースの奥深さとダイナミズムがより鮮明に見えてきます。



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