【おまえ】クロスバイクを見下すロードバイクおぢ【何様?】

ロードバイクおぢ

街中で見かける5万円~7万円程度のクロスバイクを、鼻で笑いながら横目に見るロードバイク乗りの姿は、滑稽を通り越して哀れみすら感じさせます。

フレームのロゴ一つで自分の格が上がったと勘違いし、機材の値段で他人の情熱を値踏みする。そんな選民意識にどっぷりと浸かった彼らは、自分がかつてどんな姿で自転車に乗り始めたのかを、完全に忘れてしまっているようです。

高価なカーボンフレームに跨り、最新の電子変速をカチカチと鳴らして悦に浸る。それ自体は個人の自由ですが、その優越感の矛先を初心者や安価な機材を愛用する人々に向けるのは筋違いというものです。百万円の自転車に乗ったからといって、その人間が百万円分の価値を持つわけではありません。むしろ、機材のスペックを語る言葉が熱を帯びれば帯びるほど、自分の脚力のなさを金で補っている事実を強調しているようにさえ見えてきます。

今回は、自転車界隈に蔓延するこの醜いマウント文化の正体を暴いていきます。ピチピチのサイクルウェアに身を包み、自慢の機材で武装したお前たち。その高いサドルの上から見下している相手は、数年前の、まだ純粋に風を切ることを楽しんでいたお前自身ではないのですか。

「値段」でマウントを取る雑魚すぎるメンタリティ

自転車店で数十万円、あるいは百万円を超えるようなプライスタグを見たとき、普通の人間ならその金額に圧倒されます。しかし、一部の歪んだロードバイク乗りにとって、その金額は他人を殴るための武器に変わります。彼らがクロスバイクを馬鹿にするのは、自分の脚力や技術に自信がないからに他なりません。中身が空っぽだからこそ、外側の機材に高い付加価値をつけ、それを持っていない者を見下すことでしか、自分の立ち位置を確認できないのです。

本来、スポーツとしての自転車の価値は、どれだけ遠くへ行けたか、どれだけ速く駆け抜けたかという本人の努力に宿るはずです。しかし、機材マウントに走る輩は、努力のプロセスを金でショートカットした自分を正当化するために、あえて安い自転車を叩きます。初心者に対して「そんな鉄屑じゃ走れないよ」と宣うその口は、実は自分の高価な買い物が無駄ではなかったと思い込みたい臆病な心の裏返しでしかありません。

機材のスペック表を暗記して他人の自転車の粗探しをする暇があるなら、その自慢の高級車に見合うだけの筋肉を鍛え直してはいかがでしょうか。ブランド物のロゴを背負っただけで王様になった気分でいる姿は、周囲から見れば滑稽な道化師そのものです。道具の値段を誇る前に、まずはその薄っぺらなプライドを軽量化することをお勧めします。

安い機材を叩くのは高額な出費を正当化したいだけ

なぜ彼らは、自分とは縁もゆかりもない他人が乗る安い自転車に対して、わざわざ攻撃的な言葉を投げかけるのでしょうか。その理由は至極単純です。自分が投じた多額の資金が、実はそれほど劇的な変化をもたらしていないという残酷な現実から目を逸らしたいからです。三万円の自転車と百万円の自転車。その価格差に見合うだけの感動や優越感を得られていない不安が、自分より安い機材を使っている人間を叩くという歪んだ行動に結びつきます。

いわば、安い自転車をゴミだと決めつけることで、自分の高額な出費を無理やり正当化しているに過ぎません。本当に自分の機材に満足し、その性能を使いこなしている強者であれば、他人が何に乗っていようが気にならないはずです。むしろ、限られた機材で必死に走る姿に敬意すら覚えるでしょう。安い機材を冷笑するその態度は、自分の買い物に自信が持てない精神的な弱さを、わざわざ周囲に宣伝しているようなものです。

趣味の世界において、金に物を言わせて悦に浸るのは最も簡単な逃げ道です。しかし、その逃げ道の先で他人を見下し始めた瞬間、その人間は自転車乗りではなく、単なる高価な機材の所有者に成り下がります。自分の価値を機材の価格に預けてしまった男の言葉に、一体どれほどの重みがあるというのでしょうか。

趣味の道具で人を格付けし始めた瞬間に、その男の価値は大暴落

本来、趣味とは自分の内面を豊かにするためにあるものであり、他人との優劣を競うための物差しではありません。それにもかかわらず、手にした道具の価格やブランドの格付けをそのまま人間の価値に直結させてしまうのは、あまりにも浅はかです。数十万円のロードバイクに乗っているからといって、その人が三万円のクロスバイクに乗っている人より人間として優れているわけでも、自転車に対する愛が深いわけでもありません。道具の力を自分の実力だと勘違いし、それを盾にして他人に順位をつけ始めた瞬間、その男自身の魅力は底をつき、人としての価値は暴落します。

高価な機材を持つことが悪いわけではなく、それを精神的な武装に使ってしまう心の貧しさが問題なのです。自分の趣味を楽しみ、その道具に誇りを持つことと、それを他者への攻撃や蔑みに使うことは全くの別物です。格下の機材を見つけては悦に浸り、未熟な初心者を鼻で笑う。そんなことを繰り返しているうちに、周囲からは人が離れ、残るのは冷たいカーボンかアルミの塊だけになります。

道具はあくまで目的を達成するための手段であり、自分を飾り立てるためのメダルではありません。マウントを取ることでしか自分の存在意義を証明できないのであれば、それはもはや趣味を楽しんでいるのではなく、道具に使われているだけです。自転車という素晴らしい乗り物を通じて、本来得られるはずだった自由や爽快感を自ら捨て、狭い格付けの世界に閉じこもる姿ほど、見ていて寂しいものはありません。

誰もが最初は「チェーンで裾を汚すママチャリ勢」だったはず

今の自分があたかも最初から最新鋭のロードバイクに乗っていたかのような顔をして、街中の安価な自転車を冷笑する。そんな彼らに突きつけたいのは、お前たちもかつては裾を油で真っ黒に汚しながら、重い鉄の塊を必死に漕いでいたはずだという単純な事実です。変速機も満足に付いていない自転車で、立ち漕ぎを駆使しながら近所の坂道を登りきり、息を切らしながらもどこか遠くへ行ける予感に胸を躍らせていた。そんな原体験があったからこそ、今の自転車趣味に繋がっているのではないでしょうか。

どれほど高価なカーボンフレームに跨っていようと、その根底にある楽しさは、初めて補助輪を外したあの日や、放課後に友人とあてもなく走り回ったあの夏の日と何も変わりません。当時は機材の重さやコンポーネントのグレードなんて誰も気にしていなかったはずです。純粋に自分の足でどこまでも行ける自由を謳歌していたはずなのに、知識と金を手に入れた途端、その初心をゴミ箱に捨てて他人の足元を笑う。それは、かつての自分自身を否定し、嘲笑っているのと同じことです。

ピチピチのサイクルウェアを着て、機能性の高い専用シューズを履きこなす今の姿は、過去のママチャリ勢だった自分という土台の上に成り立っています。自分を育ててくれたその泥臭い過去を忘れ、スマートなサイクリストを気取って弱者を切り捨てる。その傲慢な態度は、自転車乗りとしての成長ではなく、単なる人間性の退化に他なりません。一度その高価なペダルから足を下ろし、自分がかつて何に感動して自転車に乗り始めたのかを、静かに思い返してみるべきです。

純粋に自転車を楽しんでいた過去を思い出せ

最新の機材を自慢し、スペックの低い自転車を蔑むようになる前、私たちはもっと自由で単純な理由でサドルに跨っていました。放課後の夕暮れ時や、休日の何げない探検。ボロボロのサドルや錆びたチェーン、そして裾を巻き込まないように必死にまくったズボン。あの頃の私たちにとって、自転車はステータスを表示するための道具ではなく、自分の世界を広げてくれる魔法の翼でした。どこまで行けるか分からない不安と、追い風に乗った時の高揚感。そこにはブランドの格付けも、カーボンの積層も、グラム単位の軽量化も存在していませんでした。

ただ風を感じ、自分の力で進むことそのものが報酬だったはずです。急な坂道で足が止まりそうになり、ハンドルにしがみついてペダルを押し込んだあの必死な姿。それこそが自転車乗りとしての純粋な姿であり、今のあなたが冷笑している初心者たちの姿そのものです。彼らはかつてのあなたであり、あなたが失ってしまった熱量を今まさに燃やしている存在です。

知識が増え、手元に金が入り、より高性能なマシンを手に入れることは決して悪いことではありません。しかし、その過程で、自転車という乗り物が本来与えてくれるはずの純粋な喜びを、他人の機材を評価する醜い優越感と引き換えにしてしまったのだとしたら、それはあまりに悲しい損失です。もう一度、何も知らずにただペダルを回すだけで幸せだったあの頃の感覚を思い出してみてください。高価な機材に守られたプライドを脱ぎ捨てたとき、初めて見える景色がきっとあるはずです。

過去の自分を否定してまで守りたい「クソ雑魚プライド」の滑稽さ

自分が手にした機材の値段でしか自分の価値を証明できない人間ほど、滑稽なものはありません。彼らが安い自転車を必死に叩くのは、そうしなければ自分の高額な投資が無意味なものになってしまうという恐怖に怯えているからです。過去の自分と同じように、限られた予算の中で工夫して自転車を楽しんでいる人々を否定し、遠ざける。その行為によって守っているのは、自転車への情熱などではなく、単に金で買っただけの偽物のプライドに過ぎません。

かつては泥除けの付いた重い自転車で、雨の日も風の日も全力でペダルを回していたはずです。その頃の自分がいなければ、今の自分も存在しないはずなのに、少しばかり良い機材を手に入れた途端に過去の自分を黒歴史として葬り去り、同じ道を通っている後輩たちを嘲笑う。その姿は、成金がかつての貧しい自分を知る友人を避けるような、器の小ささを露呈しています。ブランドのロゴや最新のコンポーネントでどれだけ着飾っても、その内側にある精神が、他人の自転車を腐すことでしか満たされないのであれば、それはもはやサイクリストとは呼べません。

本当のプライドとは、どんな機材に乗っていようとも自分の走りに責任を持ち、自転車という文化そのものを愛する心に宿るものです。他人を落とすことでしか保てないようなプライドは、向かい風一つで簡単に折れてしまう、脆くて重いだけの荷物でしかありません。過去の自分を否定し、虚勢を張り続けるその姿が、周囲の人間からどれほど冷ややかな目で見られているか、そろそろ気づくべき時ではないでしょうか。

結局、一番速いのはお前ではなく遅刻寸前の学生

最新のカーボンフレームに跨り、計算し尽くされたエアロポジションで走る自分に酔いしれている最中、背後から猛烈な勢いで迫り、一瞬で抜き去っていく存在があります。それは最新の機材で武装したライバルではなく、錆びかけたチェーンを軋ませ、校章の入った重いカバンを背負った遅刻寸前の学生です。彼らにとって自転車は自己表現の手段でもなければ、承認欲求を満たすためのツールでもありません。ただただ目的地に一秒でも早く着かなければならないという、切実かつ純粋な動機に突き動かされた肉体の躍動そのものです。

どんなに高い機材を揃えても、結局のところ自転車を動かすのは人間の意志と筋肉です。週末の数時間を趣味に費やすだけの愛好家が、毎日限界ギリギリの力でペダルを回し続けている現役の学生に、純粋な出力で勝てるはずがありません。彼らは機材のグレードなんて一ミリも気にせず、ただ目の前の道を全力で踏み抜いています。その圧倒的な速さと熱量を前にしたとき、機材のスペックを語り合って悦に浸っている大人たちの姿がいかに虚飾に満ちたものであるかが浮き彫りになります。

ブランドのロゴやコンポーネントの段数を誇る前に、その足元の学生の背中を追いかけてみれば良いのです。そこで突きつけられるのは、機材による数パーセントの効率アップなど、圧倒的な必死さの前では微々たる差でしかないという現実です。一番速いのは、常に機材の限界ではなく、自分自身の限界に挑んでいる者です。高級車に乗っているからといって自分が速くなったと錯覚しているのなら、その学生の後ろ姿こそが、お前の傲慢さを打ち砕く最高の良薬となるでしょう。

安めのチャリを乗り潰す若者の方がよほど健全

最新の機材スペックを語り、グラム単位の軽量化に血眼になっている一方で、自分の腹周りの贅肉を一キロも落とせない中年サイクリストの姿は、皮肉を通り越して喜劇の域に達しています。数十万円を投じて手に入れた軽量ホイールの恩恵も、本人の体重管理の甘さによって一瞬で相殺されてしまう。そんな彼らが、三万円のクロスバイクを乗り回す若者を馬鹿にする資格がどこにあるのでしょうか。

一方で、ボロボロになるまで激安の自転車を使い倒し、雨の日も風の日も全力でペダルを回す若者たちの姿は、驚くほど健全で力強さに満ちています。彼らにとって大切なのは、ブランドの格付けではなく、その自転車が自分の行きたい場所へ連れて行ってくれるかどうかです。高価な機材を床の間に飾るように大切に扱い、少しの傷に一喜一憂する大人たちよりも、タイヤが擦り切れるまで走り続ける彼らの方が、よほど自転車という道具の本質を理解し、そのポテンシャルを引き出していると言えます。

機材の性能に依存し、道具の良さを自分の実力だと勘違いしているメタボな自称ガチ勢は、一度その贅肉とプライドを脱ぎ捨ててみるべきです。スペック表の数字を追いかけるよりも、目の前を通り過ぎる若者のように、ただ無心に、そして泥臭くペダルを回す。それこそが、本来の自転車の楽しみ方であり、健康的な精神を育む唯一の道なのです。金で買った性能を自慢する前に、まずは自分の体と真剣に向き合うことから始めてはいかがでしょうか。

車から見れば等しく「邪魔なチャリ」という現実

道路を共有する自動車のドライバーという視点に立てば、自転車乗りが内輪で繰り広げている機材の格付けがいかに滑稽であるかがよく分かります。最新のカーボンフレームに百万円を注ぎ込み、風洞実験に基づいたエアロフォームで決めているつもりでも、ハンドルを握るドライバーから見れば、それは三万円の使い古されたクロスバイクと何ら変わりません。どちらも等しく、車道の端をふらふらと進む、追い越しに気を使うべき「邪魔なチャリンコ」の一台に過ぎないのです。

ブランドのロゴが誇らしげに輝いていようが、コンポーネントが最高級グレードであろうが、車のフロントガラス越しにはそんな微細な違いなど映りません。歩行者や他のドライバーからすれば、高級車に乗ってドヤ顔をしているサイクリストも、近所のコンビニへ買い出しに行くサンダル履きの住人も、同じカテゴリーの交通弱者として一括りにされています。自分だけは特別な存在であり、周囲にその価値が伝わっていると思い込むのは、あまりに独りよがりな自意識過剰と言わざるを得ません。

狭い界隈の物差しを世間一般の基準だと勘違いし、安価な機材を公道で見下す。その行為の裏で、自分自身もまた世間からは冷ややかな目で見られているという事実に気づかない姿は、滑稽を通り越して悲惨ですらあります。高い機材で武装したところで、公道におけるお前の優先順位が上がるわけでも、社会的地位が保証されるわけでもありません。その自慢の愛車が、ただの通行の妨げとしてしか認識されていないという無慈悲な現実に、いい加減目を向けるべきです。

まとめ:マウントを取る暇があるならば

自転車という趣味の楽しさは、決して札束の厚みで決まるものではありません。激安クロスバイクを鼻で笑うその傲慢な態度は、かつて自分が持っていた純粋な情熱を自ら汚しているのと同じことです。どれほど機材が進化し、あなたの財布が潤ったとしても、ペダルを回し始めた瞬間の高揚感は、あの重いママチャリで坂道を登りきった時と何も変わっていないはずです。

他人を機材の値段で格付けし、初心者を見下すような振る舞いは、自転車界全体の寿命を縮める老害そのものです。そんな暇があるなら、その自慢の高級車で一分でも長く風を切り、自分自身の限界に挑むべきでしょう。あなたが今見下しているその初心者は、かつてのあなた自身であり、未来の自転車文化を支える大切な仲間なのです。

本当に強くてカッコいい自転車乗りとは、どんな機材に乗っている相手にも敬意を払い、共に道を走る喜びを分かち合える人のことを指します。機材のスペックを語る前に、まずはその狭い心を軽量化し、誰もが自由に風を楽しめる空気を取り戻しましょう。チャリカスモンキーを名乗るなら、高いサドルの上から吠えるのではなく、どんなボロ布を纏った猿とも等しく道を譲り合い、笑って走り抜ける余裕を持つべきです。

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