【痩せろ】正月太りを言い訳に機材アップグレードを正当化するロジック

ロードバイクおぢ

世間の良識人が見れば、それは単なる現実逃避でしょう。正月休みに蓄えた数キロの脂肪を棚に上げ、彼らは1グラムを削るために1万円を差し出します。「1g=1万円」という狂った投資が、この時期のサイクリストには「増量分を帳消しにする賢い選択」に見えてしまうのです。おにぎり一口分の軽量化に最新スマホが買える大金を投じる、その滑稽な執着こそが彼らの免罪符です。

「重力からの解放」と称したその実態は、己の怠慢を金で解決する贅沢な変態遊びに過ぎません。高級フレンチより高いネジ一本に恍惚とし、自分の体重計からは目を逸らしてパーツの数グラムに一喜一憂する。その努力もトイレ一回分で台無しになる程度のものですが、彼らは秤の数字が1減るだけで救世主の顔をします。合理性を捨て、不条理に悦びを見出すバカたちの深淵を覗いてみましょう。

正月明け、鏡の前の絶望とAmazon&ショップへの逃避

松の内の喧騒が去り、現実に引き戻されたサイクリストを待っているのは、年末年始の不摂生が形となった鏡の中のだらしないシルエットです。鏡に映る自分自身の変化から必死に目を逸らしながら、彼らはやおらスマートフォンを取り出し、Amazonのタイムセールや海外通販サイトへと指を滑らせます。そこには、自らの意志で食事を制限するという苦行を回避するための、安易で魅力的な「解決策」が並んでいるからです。

増えた体重のせいでペダリングが重くなったという不都合な真実を認める代わりに、彼らは「最近、バイクの反応が鈍い気がする」という都合の良い幻想を構築します。自分の腹回りに蓄積された数キログラムの脂肪は無視しつつ、数グラム軽いカーボンサドルや最新のセラミックプーリーをカートに放り込む。ショップの店員には「正月のロングライドで機材の限界を感じまして」と、いかにもストイックなアスリートを装いながら、実際には単に己の怠慢を諭吉の力で上書きしようとしているに過ぎません。

この逃避行は、いわば自分への免罪符を手に入れる儀式です。パーソナルトレーニングに通う月謝を払うくらいなら、その金でチタンボルトを買い揃えたほうが、手っ取り早く「速くなった気」になれる。そんな歪んだ思考回路が、正月明けの購買意欲を異常なまでに加速させます。こうして、自分の体重計には決して乗らないまま、注文履歴の総額だけが着実に積み上がっていくのです。

餅の数と反比例する登坂性能:自らの増量を認めない生存本能

正月休みの食卓に並ぶ餅の数は、サイクリストにとって恐怖のカウントダウンに他なりません。一つ食べるごとに確実に身体が重力に捕らわれていくという物理的な予感がありながら、彼らは「これは明日走るためのエネルギー源だ」という見え透いた嘘で自分を欺き続けます。しかし、いざ連休明けに走り出し、いつもの坂道に差し掛かった瞬間、現実は残酷なまでの重みとなって脚に突きつけられます。

ここで面白いのが、彼らが決して自分の増量を認めようとしない強固な生存本能です。心拍数は異常に跳ね上がり、呼吸は苦しく、ペダルは鉛のように重い。普通に考えれば、連日の暴飲暴食で蓄えられた腹周りの脂肪が原因であることは明白です。ところが、彼らはハンドルを握りしめながら「今日の空気密度は異常に高いのではないか」とか「タイヤの空気圧設定を間違えたかもしれない」といった、科学的根拠を欠いた言い訳を脳内で必死に捻り出します。

この現実歪曲能力こそが、次なる散財への重要なステップとなります。自分の肉体が衰えたのではなく、あくまで機材が今の自分に追いついていないのだと思い込むことで、彼らは平然と高価なパーツ選びへと移行できるのです。餅によって膨らんだ下腹部をジャージの中に無理やり押し込みながら、意識はすでに「この重さを打ち消すための軽量ホイール」へと飛んでいます。自分の重みを機材のせいにできる図太い精神力。それこそが、正月明けの自転車業界を支える隠れた原動力なのです。

「重いのは俺じゃない、バイクだ」という現実逃避の始まり

急勾配の坂道で、肺が焼けるような苦しみと戦いながら、彼らの脳内では高度な自己防衛システムが作動し始めます。本来であれば、昨夜食べた特上寿司や、こたつで無意識に口へ運んだ大量の蜜柑を恨むべきところです。しかし、驚くべきことに彼らの思考は、自分の肉体という主因を完全に切り離し、全ての罪を罪なきロードバイクに着せ始めるのです。

「なんだか、今日はバイクの進みが異常に悪いな」という独り言は、現実逃避の完成を告げる合図です。自分の体重計が示した、見覚えのない三桁近い増量分は一時的な記憶喪失によって抹消されます。代わりに、一年前から使い込んでいる愛車の「経年劣化による剛性不足」や「ベアリングの回転の渋さ」が、あたかも今日突然発生した重大な欠陥であるかのように脳内でクローズアップされていきます。バイクが重い、だから進まない。この単純なすり替えこそが、彼らの精神の平穏を保つための唯一の手段なのです。

この巧妙な論理のすり替えが完了したとき、彼らの目には馴染みのショップが、単なる自転車屋ではなく「救済の聖域」として映り始めます。自分の贅肉を削るという泥臭い努力を放棄し、札束の力で重力をねじ伏せる。そんな歪んだ解決策が、あたかも唯一の正解であるかのように輝きを放ちます。重いのは自分ではなく機材。その確信が、次なる高額請求書への恐怖を、期待という名の興奮へと塗り替えていくのです。

パーソナルトレーニング代をチタンボルトに注ぎ込む倒錯した決意

正月太りを解消するためにジムへ通い、厳しい食事制限と筋力トレーニングに励む。そんな真っ当な努力が自分にできるはずもないと、彼らは早々に悟ります。数ヶ月かけて自分の肉体を数キロ絞る苦労を考えれば、その会費をすべて最新のチタンボルトや超軽量パーツの購入資金に充てるほうが、遥かに「効率的」で「確実」な投資であると結論付けるのです。

自分の腹筋を割る努力は明日からでもできますが、チタンボルトを組み込む快感は今すぐ手に入ります。パーソナルトレーナーに罵倒されながらスクワットをする屈辱を味わうくらいなら、自宅のメンテナンス台で宝石のような輝きを放つボルトを一本ずつ交換するほうが、精神的な満足度は比較になりません。数万円を払って手に入るのは、わずか数十グラムの軽量化かもしれませんが、そこには自分の怠慢を最新素材でコーティングしたという、歪んだ達成感が宿っています。

この倒錯した決意は、もはや「痩せる」という目的すら忘れさせます。自分の体重が減らないのなら、せめて自転車だけでも極限まで削ぎ落とし、トータルの重量で辻褄を合わせれば良いという、算数の概念を根本から覆すようなロジックが完成します。トレーニング代を機材代へとロンダリングし、自分の贅肉には甘く、バイクには極限のダイエットを強いる。この身勝手な選択こそが、正月明けのサイクリストを突き動かす、狂気混じりの原動力なのです。

恐怖の等価交換:体脂肪1キロ vs カーボン100グラム

理性的、あるいは生物学的な観点から見れば、この比較は成立すらしない愚行です。体脂肪を一キログラム燃焼させるには、およそ七千二百キロカロリーの消費が必要であり、それは数週間にわたる地道な運動と食事制限を意味します。一方、カーボンパーツで百グラムを削り出すには、ただクレジットカードを差し出し、暗証番号を入力するだけで済みます。この「苦痛の回避」にかかるコストを計算したとき、サイクリストの脳内では恐ろしい等価交換が成立してしまいます。

彼らにとって、数ヶ月の空腹に耐えて脂肪を落とす労力は、金額に換算すれば数十万円の価値があるという超理論が展開されます。そうなれば、わずか数万円で百グラムを確実に、しかも即座に抹消してくれるカーボンパーツは、むしろ「タダ同然の格安商品」に見えてくるから不思議です。自分の身体を律する難しさに比べれば、札束の力で重力をねじ伏せるほうが遥かに現実的で、確実なリターンが見込める投資だと信じ込んでしまうのです。

この等価交換の最大の恐怖は、一度この味を占めると、二度と自らの肉体的な努力に戻れなくなる点にあります。脂肪を減らす努力を放棄し、その代わりに高価な炭素繊維を買い足すことで、増え続ける自分の体重との帳尻を合わせようとする。機材が軽くなればなるほど、乗り手自身の甘えもまた重層的に蓄積していくという、救いようのない負のループ。しかし、彼らは秤の上の百グラムの減少にのみ目を向け、自らの腹回りに鎮座する一キログラムの現実からは、今日も全力で逃走し続けています。

ライザップに通うより、セラミックベアリングを買う方が「確実」な理由

厳しい食事制限とトレーニングを強制されるライザップへの入会は、いわば自分自身の意志の弱さと真っ向から対峙する戦いです。そこには挫折のリスクが常に付きまとい、多額の入会金を払ってもなお、数ヶ月後に理想の身体が手に入っている保証はありません。しかし、最高級のセラミックベアリングを購入し、ボトムブラケットやプーリーに組み込むという行為は、実行した瞬間に物理的な抵抗が減少するという、科学的に「確実」な勝利を約束してくれます。

彼らの歪んだ理論によれば、不確定要素の多い自分の肉体改造に投資するよりも、工業規格で性能が保証された超高性能パーツに投資するほうが、費用対効果が高いということになります。ライザップで数キロ痩せるための努力と忍耐を金額に換算すれば、数万円で手に入る驚異的な回転性能は、もはや実質無料のようなものです。セラミックの球体がもたらす滑らかな回転は、正月太りで重くなった脚を魔法のように軽くしてくれます。自分の筋肉を鍛え上げるよりも、ベアリングの摩擦をゼロに近づけるほうが、明日からのライドを確実に変えてくれると確信しているのです。

この「確実性」こそが、彼らが散財を正当化する最大の武器です。努力不足で痩せられなかったという敗北感を味わう前に、最先端テクノロジーの結晶をマシンに搭載し、スペック上の優位性を手に入れる。どれほど自分が太ろうとも、セラミックベアリングは裏切ることなく回り続け、失われたはずの推進力を補ってくれます。自分の肉体という不安定な資本を磨くことを諦め、確実な機械の性能に身を委ねる。その甘美な逃避が、今日もまた彼らの財布を軽くしていくのです。

食事制限の苦痛を、数万円の請求書の刺激で上書きする快感

大好きな白米を我慢し、空腹に耐えながら過ごす毎日は、精神を摩耗させるだけの苦行でしかありません。しかし、その空腹感を紛らわせるための特効薬が、この世には存在します。それこそが、超軽量パーツを購入した際に発行される、数万円単位の鮮やかな請求書という刺激です。空腹による虚脱感を、高価な買い物をしたという強烈なアドレナリンで上書きする。この瞬間、サイクリストの脳内では食欲という原始的な欲求が、物欲という高度で知的な愉悦によって完全に支配されます。

夕食をサラダだけで済ませる惨めな夜も、スマートフォンの画面に届く「注文確定」の通知や、カード決済の完了メールを眺めれば、不思議と空腹は消え去ります。数万円を支払って手に入れる数グラムの軽量化は、肉体的な飢えを埋めるための精神的な糧となるのです。食事制限という自分を律する苦しみは、いつしか「このパーツを買うために食費を削っているのだ」という崇高な犠牲的精神へとすり替えられます。請求書の金額が大きければ大きいほど、その刺激は強く、自らの肉体を追い込んでいるという倒錯した快感へと変わっていきます。

結局のところ、彼らは空腹を紛らわせるために買い物をしているのではなく、買い物を正当化するために空腹を必要としているのかもしれません。支払いの痛みが、自分の身体から余分なものが削ぎ落とされているという感覚を擬似的に作り出します。胃袋を満たす代わりに、カーボンやチタンの輝きで心を満たす。財布の中身が軽くなっていくその落差こそが、正月太りという現実から目を逸らし、自分を極限のアスリートだと思い込ませるための、最も効果的な麻薬なのです。

1グラム=1万円の投資は、正月太りへの免罪符になり得るか?

中世の教会が免罪符を発行し、金銭で魂の救済を約束したように、現代のサイクリストもまた、一グラム一万円という法外な寄進を行うことで、正月太りという大罪を浄化しようと試みます。彼らにとって、高価なカーボンパーツを組み込む行為は、単なる機材の更新ではありません。それは、鏡を見るたびに苛まれる罪悪感から解放されるための、神聖な儀式なのです。

客観的に見れば、腹回りに蓄積された数キログラムの脂肪は、たかだか数百グラムの軽量パーツで相殺できるはずもありません。しかし、彼らの脳内計算式では、一グラムを一万円で買い取るという高い代償を払ったという事実こそが、己の怠慢を許すための「通行許可証」となります。「これだけ大金を投じたのだから、多少の体重増は機材がカバーしてくれるはずだ」という身勝手な論理。この一グラムに対する異常な執着が、彼らに明日への希望を与え、正月太りという現実の重圧を一時的に忘れさせてくれるのです。

結局のところ、この投資が免罪符になり得るかどうかは、本人がどこまで自分を騙しきれるかにかかっています。一グラム単位で削ぎ落とされたマシンの機能美を眺めている間だけは、自分もまたその一部であるかのような錯覚に浸ることができます。重力という神への供物として、一万円札を次々と焚べる男たち。その歪んだ信仰心が、正月明けの冷え切った坂道へと、彼らを再び向かわせる原動力となっているのです。

剛性不足という魔法の言葉で物欲を正当化する

正月太りによってパワーウェイトレシオが劇的に悪化したサイクリストにとって、剛性不足という言葉は、あらゆる不都合を機材のせいにできる万能の呪文です。坂道でペダルが異様に重く感じられたとき、本来なら自らの贅肉が重力に引きずられている事実を直視すべきですが、彼らは違います。「フレームが今の自分のパワーを受け止めきれず、たわんでいる」という、驚くべき論理の飛躍を大真面目に展開し始めるのです。

彼らの主張によれば、正月休みに蓄えたのは脂肪ではなく、餅という名の高カロリー燃料によって一時的に強化された強大な筋力です。その架空のパワーを路面に伝えるには、これまでの華奢な軽量パーツではもはや役不足であるという結論が導き出されます。踏み込んだ瞬間に感じる鈍い反応を、自らの肉体の重さではなく、機材の剛性が足りないせいだと断じることで、彼らは新型フレームや超高剛性ホイールの購入という、極めて「論理的」な解決策へと辿り着くのです。

この魔法の言葉さえあれば、妻への言い訳も、自分自身の良心への釈明も容易になります。「安全のために、増えた負荷(体重)に耐えうる剛性が必要なんだ」という詭弁は、正月太りという醜い現実を、最新素材を導入するための輝かしい大義名分へと塗り替えてくれます。自分を削るのではなく、剛性を足す。この倒錯した正当化こそが、物欲という名の炎に油を注ぎ、彼らをさらなる高額投資へと駆り立てるのです。

太ったのではない、という強弁

「私は太ったのではない。登坂におけるトラクションを稼ぐために、戦略的な増量を行っただけだ」。そんな支離滅裂な強弁を、彼らは一切の迷いなく口にします。正月の不摂生によって膨らんだ腹部を、アスリートが筋肉量を増やすために行うバルクアップと同一視するという、あまりにも厚顔無恥な理論のすり替えです。彼らにとって、ジーンズのボタンが弾け飛ぶのは成長の証であり、決して自己管理の欠如などではないのです。

この強弁を維持するために、彼らは最新の物理学(自称)を総動員します。「質量が増えれば、下り坂での慣性が増大し、最高速が伸びるはずだ」とか、「身体の断面積が増えることで、むしろ重心が安定し、横風に強くなった」といった、聞いている方が恥ずかしくなるような屁理屈を並べ立てます。自分の肉体が重力という自然の摂理に敗北している事実を、知性という名の薄い膜で覆い隠そうとするその姿は、ある種の悲哀すら漂わせる喜劇です。

結局、彼らが守りたいのは自尊心です。自分がただの食いしん坊であることを認めるくらいなら、未踏のトレーニング理論に基づいた肉体改造の途中であると言い張る方が、精神衛生上は遥かに健全なのです。たとえ周囲が冷ややかな視線を送ろうとも、彼らは鏡の前で自らの腹を撫で、「これは未来の爆発的な加速力を生むためのエネルギー貯蔵庫だ」と自分に言い聞かせます。この救いようのない強弁こそが、現実の重みに押し潰されないための、彼らなりの最後の防衛線なのです。

新型ホイール導入の理由は「増えた体重を支えるための安全策」

正月太りという動かしがたい現実を前にした時、サイクリストの思考は驚くべき防衛本能を発揮します。自分の増量を「機材への過負荷」という安全上のリスクにすり替えるのです。昨日まで愛用していた軽量ホイールに対し、「今の私の強大なパワー(と物理的な質量)を受け止めるには、スポークの強度が足りないのではないか」という、もっともらしい懸念を抱き始めます。自分を削る努力を放棄した彼らにとって、新型ホイールの導入はもはや贅沢ではなく、事故を未然に防ぐための「切実な安全投資」へと昇華されます。

この論理によれば、より高剛性で、より最新のカーボンテクノロジーを駆使した高価なホイールを選ぶことは、社会人としての責任ある行動となります。ショップのカウンターで「最近、下りでの挙動に不安を感じるようになって」と神妙な面持ちで語る彼らの背後には、餅と酒で肥大化した自重という真の原因が隠されています。しかし、彼らの脳内では、増えた体重を支えるためにリムの幅を広げ、ハブの耐久性を上げることは、家族を守り、安全に走り続けるための崇高な決断として正当化されているのです。

結局のところ、新型ホイールがもたらすのは走行性能の向上だけではありません。自分の肉体的な怠慢を「機材のアップグレード」というポジティブな行動に変換することで、心に平穏をもたらす精神的な緩衝材としての役割も果たします。高額な請求書と引き換えに手に入れた剛性は、増えすぎた自重への免罪符となり、彼らは再び胸を張って坂道へと向かいます。安全性という魔法の言葉さえあれば、物欲を妨げる障害はどこにも存在しないのです。

最新素材がもたらす、罪悪感を消し去る驚異の加速力

正月太りという重い十字架を背負ったサイクリストにとって、最新のカーボン素材や特殊合金が放つ輝きは、救済の光そのものです。自らの肉体が放つ鈍重な反応を、素材の弾性という超常的な力で強引に上書きする。ペダルを踏み込んだ瞬間に、まるで背中を押し出されるような鋭い加速を感じたとき、彼らの脳内からは「昨日食べた揚げ物」の記憶が綺麗さっぱりと消去されます。この加速力こそが、自堕落な休日を過ごした自分を許すための唯一の免罪符となるのです。

最新素材がもたらす驚異的なレスポンスは、自分の筋肉が衰えたのではなく、むしろ「この最新機材に選ばれるだけのパワーが自分には備わっている」という心地よい誤解を植え付けてくれます。たとえその加速の裏側に、数十万円のカード決済という冷徹な事実が隠されていたとしても、風を切る爽快感がすべてを肯定してしまいます。物理的な質量が増えたはずなのに、機材の進化によって以前よりも軽やかに進む。この不自然な逆転現象に酔いしれることで、彼らは自らの不摂生を正当化し、再び高い志を持つアスリートの顔を取り戻すことができるのです。

結局のところ、彼らが買っているのはパーツではなく、罪悪感を感じなくて済むための「時間」と「感覚」です。地道なダイエットで数ヶ月かけて取り戻すべき軽快さを、最新素材の力で瞬時に手に入れる。この圧倒的な効率の良さを前にしては、食事制限などという古臭い努力はあまりにも滑稽に映ります。機材がもたらす一瞬の加速力が、重苦しい現実を置き去りにしてくれる。その快感に身を委ねることで、彼らは正月太りの暗い淵から、鮮やかに脱出を果たすのです。

秤(スケール)の上で繰り広げられる、虚無の帳尻合わせ

洗面所に鎮座する体重計には決して近づかず、埃を被らせたまま放置している一方で、彼らはキッチンに置かれた精密なデジタルスケールに対しては異常なまでの執着を見せます。自分の身体に蓄積された数キログラムの増量という厳然たる事実は、見なかったことにすれば存在しないも同然です。しかし、新しく届いたチタンボルトが公称値より0.5グラム重いかどうかという問題は、彼らにとって世界の存亡に関わる重大事となります。

この秤の上で繰り広げられるのは、増えすぎた自重を機材の軽量化で相殺しようとする、あまりにも虚無的な帳尻合わせの儀式です。1グラム単位でパーツを測定し、それをエクセルシートに記録しては、前モデルより数グラム軽くなったことに狂喜乱舞する。その背後で、己の肉体が数千グラム単位で重くなっているという圧倒的な矛盾には、驚くべき精神力で蓋をします。パーツを削り、ボルトを替え、合計で100グラムの軽量化に成功したとき、彼らはあたかも正月太りという負債を完済したかのような全能感に包まれるのです。

客観的に見れば、その帳尻合わせは算数のレベルですら破綻しています。バケツ一杯の水が増えたのに、スプーン一杯の水を捨てて「元通りだ」と言い張るようなものです。しかし、この0.1グラムを競う微細な戦いに没頭している間だけは、自分の不摂生という醜い現実から解放され、純粋に「軽さ」を追求する求道者でいられます。この秤の上の虚構こそが、正月明けの荒んだサイクリストの心を支える、唯一の安らぎの場となっているのです。

自分の体重計からは目を逸らし、キッチンスケールで0.1グラムを競う病

洗面所の隅で静かに時を刻む体重計は、彼らにとって忌まわしき現実を突きつける審判の台に他なりません。そこに乗れば、正月休みの快楽が残酷なデジタル数字となって暴かれる。だからこそ、彼らはその存在を脳内から抹消し、決して片足を乗せることすら許しません。しかしその一方で、キッチンに場所を移せば、彼らは0.1グラム単位の誤差を許さない厳格な計量官へと変貌します。

この病的なまでの執着は、自らの肉体の増量という巨大な負債を、機材の微細な軽量化で返済しようとする精神的な自衛手段です。自分の体重が3キロ増えたことには驚くほど無関心でいられるのに、新しく購入したカーボンケージがカタログスペックより2グラム重いだけで、夜も眠れないほどの憤りを感じます。自分の腹回りに居座る脂肪を削る努力は放棄したくせに、ボルト一本の頭を削り、ワッシャーを一枚抜くことで得られるコンマ数グラムの減少に、人生のすべてを賭けているかのような真剣味を見せるのです。

彼らにとって、キッチンスケールの上の数字こそが真実であり、自己肯定の源です。0.1グラムを削り出すたびに、正月太りという罪が少しずつ浄化されていくような錯覚に陥る。この倒錯した世界観の中では、自分の肉体というマクロな視点は完全に失われ、極小のパーツが描く数値の揺らぎだけが、唯一の救いとなります。体重計という名の現世の鏡を割り、スケールという名の虚構の祭壇に祈りを捧げる。その滑稽で切実な病は、今日もまた彼らを細部という名の迷宮へと誘い込みます。

ウェアのチャックが閉まらない怒りを、ディレイラーの肉抜きにぶつける

正月の暴飲暴食のツケは、サイクリングウェアに袖を通そうとした瞬間に、逃げ場のない現実として襲いかかります。かつては滑らかに動いていたはずのチャックが、腹部の膨らみに行く手を阻まれ、悲鳴を上げるようにして止まる。鏡の前で息を止め、顔を真っ赤にして格闘しても、数センチの隙間が埋まらない。このとき、サイクリストの心に宿るのは、己の自制心のなさを悔いる反省ではなく、物理的な抵抗を生み出すこの世界に対する理不尽なまでの怒りです。

しかし、その怒りの矛先が自分の食生活に向かうことはありません。彼らは震える手で工具を握り、おもむろに愛車のディレイラーを取り外します。そして、ウェアのチャックが閉まらないという物理的な絶望を晴らすかのように、精密ドリルでアルミのプレートに肉抜き穴を開け始めるのです。自らの贅肉を落とすことができないもどかしさを、金属のパーツを削り屑に変えることで解消しようとする。この、あまりにも筋違いな八つ当たりこそが、軽量化の沼に沈んだ者の末期症状と言えます。

数時間をかけてディレイラーを限界までスケルトン化し、数グラムの減量に成功したとき、彼らはようやく安堵の吐息を漏らします。依然としてウェアのチャックは閉まらないままですが、マシンの変速機に穿たれた無数の穴を眺めていると、不思議と「これでプラマイゼロだ」という全能感に満たされます。自分の腹を凹ませる代わりに、パーツに穴を開けて通気性と軽量化を両立させたという歪んだ解釈。その虚しい勝利の積み重ねが、正月明けのガレージで人知れず繰り返されているのです。

「トータル重量が変わらないなら問題ない」という算数崩壊のロジック

正月太りによって自分の体重が三キログラム増えた事実を突きつけられたとき、彼らは驚くべき数学的パラダイムシフトを敢行します。普通に考えれば、その三キログラムを減らすために走り込むのが道理ですが、彼らは違います。「自分の体重が増えた分、自転車を三キログラム軽くすれば、システム全体のトータル重量は変わらないから問題ない」という、算数の概念が根底から崩壊した究極の理論を持ち出すのです。

このロジックの恐ろしい点は、本人がそれを大真面目に「解決策」だと信じ込んでいることです。三キログラムの脂肪を落とす苦労と、三キログラムの軽量化を実現するために必要な数百万円の出費を天秤にかけ、迷わず後者を選びます。物理的には確かに全体の質量は同じかもしれませんが、エンジンの性能が低下し、燃料タンクだけが肥大化した状態であるという残酷な事実は完全に無視されます。彼らにとって重要なのは、秤の上の数字をいじくり回して、帳簿上の数字を無理やり合わせるという事務的な処理なのです。

こうして、本来は自分を律するためのスポーツであったはずの自転車は、自らの増量を金で解決するためのマネーゲームへと変貌します。「一キログラム太るごとに、一キログラム軽いパーツを買えばいい」という無限地獄のような思考停止。この理論を盾にすれば、どれほど暴飲暴食を重ねようとも、クレジットカードの限度額が許す限り、彼らは「軽量サイクリスト」としての体裁を保ち続けることができます。自分の肉体を削る代わりに、銀行口座の残高を削り落とす。その算数崩壊の果てに待っているのは、超軽量パーツで固められた自転車に跨った、以前より一回り大きくなった自分の姿なのです。

まとめ:財布を空にして、物理的にも精神的にも軽くなるために

正月太りという重力に魂を引かれたサイクリストたちが、最後に辿り着く救済の地。それは、自らの贅肉を落とすことでも、ストイックな練習に明け暮れることでもありません。銀行口座の残高を極限まで削ぎ落とし、物理的にも精神的にも「身軽」になることです。数万円、数十万円という大金を最新パーツに注ぎ込み、財布をぺちゃんこにすること。この絶対的な喪失感こそが、増えすぎた自重を打ち消す唯一の清涼剤となるのです。

結局のところ、私たちが追い求めているのは速さではなく、己の不摂生を許すための「正当な理由」に過ぎません。一グラム一万円という不条理な投資を繰り返すことで、私たちは「これだけ努力(散財)しているのだから、太っていても仕方がない」という究極の開き直りを手に入れます。金銭という重荷を捨て去り、代わりに手に入れたカーボンやチタンの輝きは、正月太りという暗い現実を照らし出す希望の光です。財布の軽さが、バイクの軽さを、そして心の軽さを生む。この見事なまでの本末転倒こそが、サイクリストに許された最高の贅沢なのです。

明日からも、鏡の前の自分とは目を合わせず、キッチンスケールの上の数字だけを信じて生きていきましょう。どれほど体が重くなろうとも、カードの限度額が残っている限り、私たちはどこまでも軽くなれるのです。自分の肉体を削るよりも、通帳の数字を削る方が遥かに容易なのですから。さあ、もう一度ショップのサイトを開きましょう。その一クリックが、あなたを重力という名の罪から解放してくれるはずです。

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